百年間、厄災ガノンと戦い続けていた姫君と共に、ハイラルを奪還した勇者リンクの話は瞬く間に世界中に広がった。百年前に殺された各部族の神獣も厄災との戦いには大変貢献したらしい。百年間、勇者の生存を信じて待ち続け、勇者の冒険に寄与したシーカー族も他の民からの信頼も厚いが、彼らは大昔、我々イーガ団のような存在を作り出してしまったことを悔いているらしく、これからも表舞台に出てくることはなさそうだ。
先に迫害したのは王家だというのに、都合のよろしいことで。とは、思うものの、シーカー族とイーガ団はもう袂を分けた存在。何を言う気にもなれない。
例えば、勇者が世界を救ったとして。
例えば、姫君が世界を統治したとして、
いつも通り朝餉をシーク様へ運んだあの時までは、あたしには何にも関係のない世界のお話なのだと思っていた。
魔法の言葉を唱えたら辿り着くシーク様の隠れ家。その出現場所からちょうど背を向けた形で座っている筈の彼は今日に限って、あたしに向かって立ち上がっていた。背負い袋の中には必要物資がいろいろ詰まっていそうな感じで、つまり、その姿はここを旅立つつもりなのだとにぶいあたしに雄弁に伝えている。
「お出かけですか、シーク様」
「……ナエ」
そんな筈ないと分かっていた。あたしが成人して以降、シーク様がこの隠れ家から出ることはなかったのだから。きっと出て行ったら最後、戻っては来まい。両手が震えないようにするのが精いっぱいだった。彼はどこへ行こうというのだろう。彼はなにに忠誠を誓っているというのだろう。彼は、何のために研究を続けていたのだろう。
いつでも機会があったにもかかわらず、彼がここから旅立つのは今なのだから、全てわかり切ったこと。
あたしの顔があまりにも蒼白だったためか、シーク様は安心させるように微笑んで一歩あたしに近づいた。いつもと違う、闇に溶け込みそうな真っ黒な外套の下から、日光を久しく浴びてない真っ白で絹のような指先が見え隠れする。
「ナエ」
伸ばしたその指はあたしの頬に触れたかと思うとそのまま、すっと肌の上を滑っていく。目の淵に辿り着いた時、あたしは二つのことに気が付いた。ひとつは彼の爪が前よりほんの少しだけ伸びていること。肌の上を滑るたびに主張する長さは、前にはなかった。
そしてもうひとつは、あたしの目元に涙が溜まっていたということだ。指先が触れた瞬間、淡く弾けてこぼれだす。止めようとは思わなかった。
「シーク様はあたしのこと、妹のように大事に思ってくれていたと思ってました」
「ナエのことを妹だと思ったことはないよ」
「邪険にしなかったでしょう」
「ナエの兄はコーガだ」
目元からこぼれる雫はそのままにシーク様は、今度はあたしの頭に手を乗せた。結局、成長しても届くことのなかった身長差に悔しい思いをするけれど、宥めるように上から髪を手櫛で梳かれるのは悪くない。見上げると滲んだ視界の中、初めて見るほどやさしい表情の彼がいた。
「今までお前はよく頑張っていたよ」
「それなら、」
「でも、僕は行かなきゃならない。僕は、兄として妹を守ってやりたいんだ」
どこかで聞いた言葉だと、不意に思った。思い出そうとしている間にそれを、阻むようにシーク様は両手で頬を挟む。顔の位置が固定され、そっと高さを合わせられた視線が絡む。赤い瞳は今日も変わらずルビーのようにうつくしかったけれど、それ故にこれを手放さなければならない状況が惜しい。彼は、いつだってあたしの憧れだった。
「コーガは愚かだけど、きっとお前を守ろうとするよ」
「コーガ兄のことは、あたしが守らなきゃ」
「人も殺せないのに?」
引きつった笑いであたしを揶揄する彼は、その情報をどこから手に入れたのだろう。
「殺せなくても、守るの。それがあなたからでも」
「そう」
きっとあたしはいつでもシーク様に踊らされていて、それでも良いと思ってしまった。あたしは初対面のその時と違って、彼の外見のきらきらしたところに惹かれているわけではないと確信したからだ。無視することが出来たのに、毎食時には相手になってくれて、いろんなことを教えてくれた博識で優美な彼がとても好きだった――
「だから、あたしを置いて行ってしまうあなたが憎いの、シーク様」
「何もかもを捨ててついてくるなら、居場所を用意してあげられるよ?」
「それはできない。あたしは総長だから」
あたしの返事なんて分かり切っててそんな問いを投げるのだから、随分と人がよろしくないことで。そんな人間みたいなやり取りが出来るひとだとは思いもよらなかった。でもこの数年間でのあたしのやり取りの中できっと学んだことなのだろう。あたしは良く、シーク様のから肯定を貰えない問いを投げかけたものだ。それもこれも、彼があたしを慈しんでくれてたと思っていたから、あたしが彼を好きでいたから。
――だから、好きだったからこそ、増していく憎しみを腹の奥底に閉じ込めて、瞳にはありったけの熱を込める。伝わってほしい。情緒を理解し得ないこの人にも。
「それなら仕方がない――時間だ」
「シーク様?」
懐から取り出した懐中時計を見て、シーク様はまた目を細める。顔の筋肉が固まっているのではないかというほど表情に動きの少ないシーク様の、唯一雄弁な部位。それに見惚れていると、彼はそっと口を開く。
「お別れだ、ナエ」
またね、と告げたシーク様はあたしの瞬きの間に消え失せて、ここではない何処かへ行ってしまった。
裏の総長たるシーク様の存在を知るのはあたしとコーガ兄だけで、コーガ兄はシーク様が消えたことを知ると、こうなるのも全て想定済みだったかのような素振りを見せた。コーガ兄はあたしと違ってシーク様を好ましく思ってはいなかったけれど、それでもある種、父親のように慕っていたので肩を落としていたのは間違いない。あたし達の血縁上の父親は、組織をまとめる長としての才能はあれども、決して父として尊敬できる存在ではないから。
「お前はついていかなくて良かったのか、ナエ」
「馬鹿ね、コーガ兄。これでもあたしはあんたから総長を引き継いだのよ」
「こうなると分かっていたから、お前にこの組織の全てを押し付ける気にはなれなかったんだ」
「あたしがシーク様を好いていることも、あの人がいずれここを去ることも知っていたのね」
「予感だがな。俺が勇者に負けた時点でこの組織はいずれ破滅に向かう。死と共に、この俺様が全てを持っていくつもりだったんだ」
「縁起でもないこと、言わないで」
一時よりも随分と良くなった腰を擦りながら、シーク様が使っていた隠れ家の中、兄は笑う。冗談めかして言っているが、彼の冗談は常に本気だと、妹のあたしだけは分かってる。
「潰れゆく組織の長としてより、女として幸せであってほしいと、兄が願って何が悪い?」
「唯一の親類である兄の長生きを、妹が祈って何が悪いの?」
結局あたし達兄妹は似たもの同士なのだ。お互いにそれを承知の上で言いあってまた笑う。口を開けて品のない笑いが響く洞穴。あたしが女としての幸せを得られると、何処の誰が言うのだか。たとえ実践がなくたってあたしは反乱組織で育ち、反乱組織でしか生きられない。表に出たとして、災厄たる厄災ガノンに追随していた組織の長の、この血を誰が許すのか。
あたしはシーク様がいつも使用していた研究机の上に、はしたなく腰を下ろす。彼がいつも使っていた椅子を使用する気にはとてもじゃないけどなれなかった。そこはあたしが軽々しく座ってよい場所じゃないの。もっと神聖な場所。
元々無駄なものなんて何もなかったのに、その上に家主が片付けた後のここはがらんどうで、今や食事に使っていた机と椅子と、あたしが腰掛けている研究机とその椅子しか存在しない。コーガ兄はそれらの何処にも座ることなく立ったまま――腰への負担を考えた結果でもある――あたしを見る。
「あの人が、いずれこの組織から旅立つこと、お前は知っていたかったか?」
コーガ兄はあたしとよく似た、彼の先代によく似た顔を真剣な表情に保ったまま問いかける。あたしの答えなんて分かり切ってるくせに。産まれた腹は違っても、年齢は離れていたとしても、どうしてだかあたしたちは魂が同じくしたかのように、お互いの気持ちが共鳴しあうことがある。
「知ってたって、知らなくたって同じことよ」
「だろうな」
「知っていたってあたしはシーク様に惹かれていたし、あたしを育ててくれたコーガ兄を、この組織を捨てられない」
「そうなんだよなあ~! そうなんだよ!」
育て方、間違えちまったかなあ。と頭を掻く兄は、本当はそんなこと思っていないに違いない。一人の兄としては妹の幸せを祈れても、育ててもらった恩や組織への忠誠を忘れないあたしの性質を、先代の総長として誇りに思うだろう。
あたしもそう。たった一人の妹としては心配だけれど、勇者に負けたことは不甲斐ないと思っているし、それでも命からがら組織を捨てて一人逃げようとしないことは、今のイーガ団の総長として認めている。
成人男性が立って少し余裕がある程度の高さにある天井を見つめたあと視線を戻すと、コーガ兄は反対にあたしに背を向ける。あたしに感情を読み取られまいというのが透けて見えるが「コーガ兄、何?」敢えてそれに乗って問いかける。
「お前さ、シーク様のこと、殺せる?」
「……」
兄が何を思ってあたしにそう問いかけたのか、分からない。だけど、あたしはそのコーガ兄の問いに答えることが出来なかった。
事態が急変したのは、その年の特別に暑い日の夜だった。
昼の温度と反転するかのようにいつも以上に冷え込んだ極寒の中、見張りを担当していた団員が警鐘を鳴らすしたようだ。激しく鳴り響く音に目を覚ましたあたしは、アジトに侵入者が現れたのだとその場から飛び起きて、手早く武装した。未だ血を吸ったことのない、手に馴染んだ短剣を太もものベルトへ収納して走り出す。
まずはコーガ兄のところに向かうと、兄も負傷の身にも関わらず、無理を押して戦えるように準備をしていた。物が激しく倒れる音や団員の叫び声、悲鳴、響き渡る音から相当の手練れが侵入してきたのだと知る。
「先代! お嬢!」
騒ぎの方へコーガ兄と向かっていると、幹部の一人が駆け寄ってきた。彼はまだ侵入者と戦闘をしていないのか傷はなく、ほっと息を吐く。だが事態はそう安心できるものではないようで、彼の顔つきは険しかった。彼もこのイーガ団の中ではかなり上位の人間で、相当に腕が立つはずなのにこの表情だということは、状況は思っているより切迫しているのかもしれない。頭を垂れて報告をする。
「侵入者は二人です。二人ですが我々が束になっても敵うか……」
「目的は分かるか?」
彼が信頼しているのは、あたしよりもコーガ兄だと知って一瞬躊躇してしまった。兄はそんなあたしを咎めるように一瞬だけ視線をこちらにやったが、すぐに部下へ問いかける。
「いえ。ただ、迎え撃った団員達はことごとく殺されています」
「息の根を止めに来ているか。俺様が向かおう。ナエ、お前は――」
「いいえ、あたしも向かいます。侵入者は二人なんでしょう。あなた、侵入者の目的が分からない以上、団員たちの安全を一番に考えて。退去経路は知っているでしょう? 先導して」
逃げろと言おうとした兄を遮って、あたしはきっぱりと告げる。隣に立つコーガ兄を見ないようにして、まっすぐ目の前にいる部下に総長として命じると「逃げるのですか」と不服そうに問いかけられる。だけれどここで彼らの命を無駄に散らすような選択肢をあたしは取りたくなかった。
「生きていれば、組織は再興できるでしょう。市民に紛れ、身を隠しなさい。大丈夫、あたし達で侵入者は抑えるから」
「……御意に」
コーガ兄の方を確認した部下だったが、兄が黙って頷くのを見るとあたしの命令を承知してその場から消え去った。やはり、あたしにはまだまだ部下を従えるほどの度量がないのだとこんな場面ですら再確認させられてしまう。
「あたしに従ってるわけじゃないのよね、団員たちは」
「今にそうなるさ」
「……死にに行くくせに」
「分かってて、道連れになろうとしているくせに」
これでも武装集団だ。その主だった警備の面々を短時間で殺して回ろうというところには心当たりがあった。あたしたちが存在していること自体が不都合な人たちというのは多いけれど、侵入してまでそれを試みて、実際にそうして見せることが出来る人というのは限られている。
「これだけは言っておくが、ナエ。いい女だぜ、お前」
「やだ、コーガ兄。そんな年まで独身貫いたのってまさか、あたしに欲情してたからじゃないよね」
「だと言ったらどうする?」
不潔だわ、なんて冗談めかして言おうとしたところに鋭く針が飛んできた。「それ、冗談でも不愉快だな」腰だけでなく各所痛めているとはいえ、現役時にはかなりの実践を積んできた兄は飛んできたそれを短剣で弾いて、反対に周囲に刺のついた円形の刃を投げつける。針を投げてきた相手はコーガ兄の攻撃を容易に見抜いて鬼円刃の中央部、丸く開いた部分へ器用にナイフを差し入れて、斬撃をそこで食い止めた。遠心力でぐるぐると回り続ける鬼円刃を見て兄は舌打ちし、それでも目の前の相手から視線を逸らさない。目の前の相手――あたしが、あたし達がそうだと思った侵入者――は、あの頃緩く結っていたのとは違って、激しく動くことを想定したようにきつく編み込まれた金色の髪を尻尾のように揺らして、顔を振った。ナイフを下に向けて地面へ落としたコーガ兄の刃を右のかかとで激しく踏みつけ、金属音と共に簡単に壊して見せた。
あたしたちは彼のことを知っている。あたしたちが、きっと彼のことを一番に知っていた。だから、ここに来るのは彼なのだときっと思っていた。
「なんだ嫉妬か、シーク様よォ」
「そんな感情、僕には不要だ」
「じゃ、なんだって言うんだ」
「妹へ持つべき感情じゃないからだ」
「あんたがそう思うのは勝手だが、兄妹崇拝に巻き込まないで欲しいぜ」
挑発するように言葉を発し、先に攻撃を仕掛けたのは兄だった。本当は立っているだけで精いっぱいのはずの満身創痍の彼はもう昔使っていたような刀身が長く重い剣は使いこなせない。だから末端構成員が使うような三日月形の剣を両手に持ってシーク様に対峙する。素早く投げられる針を特徴的な形の首切り刀が弾く。かと思えば、すぐにそれをブーメランのように投げての反撃。
あたしの入る隙が無い状況に茫然と立ちすくんでると、背後から物凄い殺気を感じて身震いをしながら振り返った。薄い青色の衣に身を包んだかつての勇者がそこにいた。
「ふぅん。これくらいは気付けるんだ」
本当に感心したようにそういうと、間髪入れずに「これはどうかな」あたしたちの部下が使っていただろう二連弓を取り出して打ってくる。着実に相手を仕留めるために二本連続で撃つことの出来る矢の特性を知っていたため、掠ることもなく、最低限の動きであたしは避けた。
「……君さ、前も思ったけど、攻撃を避けるのだけは一級品だよ。誇っていい」
「無様に逃げてるって揶揄してるの?」
「戦略的撤退は正解ってこと。イーガ団の殲滅を目的に来たけど、逃げてアジトをなくした一般市民までは俺らは狙わないからね」
あたしがイーガ団の幹部に命じたことをまるでその場で聞いていたかのように、勇者リンクは告げた。あたしはカッとなって短剣を構える。「あたしは、今度は逃げない」彼の強さは知っていた。しかもあの時慣れ合ってしまったがばかりに、彼に刃を向けるのを躊躇する。そんなあたしの躊躇いを知るように、勇者は口を歪ませて笑う。
「向かい合う相手に、容赦する気は無いけどね」
「それでも、あたしはこの組織の長だ」
口だけでも、見かけだけでも、あたしにはその誇りがあると言いきれば、少し感心したようにリンクはあたしを見据えて、「へぇ」と舌で唇を舐めた。
「心意気は本物ってわけだ、でも――」
短剣を取り出し、今度こそ躊躇いを捨てて切りかかる。だが、リンクはその場から一歩も動くことなく、鞘から抜いてすらいない剣であたしの短剣の平たい腹の部分に当てて弾いた。その衝撃で短剣を持っていた右手が痺れる。あまりの力量さに腰が抜けてその場に座り込んでしまう。床の冷たさがじわじわと身体を蝕んでいくが、かつてのように下半身は痙攣して動けない。立ち上がることもできない。絶望を感じる。リンクはそっと剣を抜く。獲物を持つ右手とは反対の手でそっとあたしの方を押しやったら、簡単にあたしはその場に倒れ込んでしまった。見えてた天井の代わりにリンクの顔が見える。どうやらあたしに跨がっているらしい。
「ねぇ」
「……何よ」
声が震えるのを隠そうとしても、隠せていない。リンクはふっ、とおもしろがるようにわらった。
「殺されるのと、犯されるの、どっちがいい?」
「……悪趣味」
「んん、両方ってことかな?」
あたしの答えに満足したように再度声を漏らしてわらったリンクは、あたしの顔の左に剣を突き刺した。殺される。理性じゃないところでそう思い強張った身体は、自分の意志では全く動かせず、足も手も震えるまま。
「止めろ、リンク」
「分かった、分かりましたよ、シーク」
シーク様がこちらを全く見ずにコーガ兄と戦いながら止めたのに、不服そうに返事をしたリンクは「君はシークの褒美だからね」と訳の分からないことを言って突き立てていた剣を抜く。自力で身動きできないのを知っているかのように、まったく拘束せずあたしから離れた。無意識にほっと息をついてしまったが、次の瞬間飛んできた血飛沫に息を止める。
「ナエ、幸せになれ」
幻聴かもしれない。それでも掠れた声が聞こえたかと思えば、もう一度、血が雨のように降りかかる。隣に倒れ込む重たい音。音のしない足音が近づいてきて、向こうの戦いの結末が想像ついてしまった。
「任務は以上だ。リンク、帰るぞ」
「はいはい、承知しましたっと」
あたしをまるでお姫様のように横抱きに抱いたその人は血に塗れていて、あたしの唯一の肉親を殺したその人は宝石のようにきれいな赤い瞳であたしを慈しむように見ながら、戦いの相方に声を告げる。目の前が真っ赤に染まってちかちかと点滅する。愛せばよいのか、憎めばよいのか分からない。好きだったこの人をどう思えばいいのか、あたしには分からなくて、考えようとすればするほど意識が遠退いていく。
あたしの大好きだったシーク様の言葉に心底めんどくさそうに頷いた勇者の声が耳に届くのを最後にあたしは完全に何も考えられなくなった。
目が覚めると、幻想のように美しい部屋の中にあたしは存在した。
天蓋付きのとても広いふかふかのベッドというのは話に聞いたことはあったけれど、それは大昔のお姫様のような人間が使うもので、あたしたちときたら荒廃した大地の下、ネズミや虫と共に寝るのが普通だから。
これは夢なのかもしれない。意識を失う前のことは何となくしか覚えていない。不調だったとはいえコーガ兄が死んでしまうことなんて、有り得ない。あの時のことから今の今まで、これは全部夢なのかもしれない。夢だったら良いのに――そんな現実逃避は許さないとばかりに、この部屋の扉が開いたようだ。
天蓋から垂れ下がるレース編みのカーテンの中からだと周囲があまり把握できないけれど「ナエ、起きたかい?」その声でこの部屋を訪ねてきたのが、あたしが大好きだったシーク様だと分かった。まだ起きてないふりをしようかと一瞬悩んだけれど、人の気配を読むのが得意なシーク様が気付かないわけがないので「はい」と短く返事をするに留めた。
「気分はどうだい?」
「最悪じゃないのが最悪」
「そう」
近寄ってきたシーク様はそのままカーテンを開けてあたしを直接見る。その際、垣間見えた部屋の様子。思っていたよりも広い部屋であることに戸惑ってしまう。この広い部屋はきっと復興中だというハイラル城の仮設地のひとつにあるのだろう。
彼を見てまず驚いたのは髪型だ。今までは長く腰元まで伸びたまま、その時々で結い方に違いはあれども長さは変わらなかったのに、ばっさりと首上までの長さに短くなっていた。その上、身に纏う衣装も今までのイーガ団での赤を基調とした服装と当然違って、白を基調としたものである。それがそのままそうではないけれど、我々と遠い昔に袂を分けたシーカー族のものをもとに意匠をこらしていることは明白だった。彼はきっと、王家に楯突いた我々とは反対のシーカー族に組したのだ。いや、元々が王家に由来のあるひとだったのかもしれない。
『僕がその昔、王族の一員だった頃にね、あったよ』
唐突に思い出したその言葉――あたしが彼を王子様のようだと称した時に見せた、人を殺せそうなほど冷たい表情は今でも脳裏に張り付いている。あれはすぐに冗談だとシーク様にしては珍しく笑っていたけれど、冗談だって言うのが嘘だったのかもしれないと、あたしはここで初めて知った。
シーク様は、彼の隠れ家で会っていた時と変わらない態度だった。違うのは、今はあたしの方が訪問される側で、シーク様がやってくる側だということ。シーク様は何を思ったのか広いベッドの淵に腰掛けて、あたしを見下ろす。あたしを見る目は――もしかしたら作り物なのかもしれないけれど――あの頃と同じようにあたしを慈しんでくれているように思う。
そう思うと、ぽつりと不安がこぼれだす。
「あたし、どうなるの?」
「釈放になるのかもしれないし、ならないかもしれない」
「曖昧なのはどうして?」
あたしの問いに曖昧に微笑んで、シーク様は間を置いた。けれど黙るわけではなく、逆にあたしに問いかける。「ナエは如何したいの?」その問いにあたしは意味を見出せなかった。だって、あたしがどうしたいと言ったからって、あたしの思い通りになるわけがないじゃない。
「……」
あたしがだんまりのままでいるのに、息をついて彼はあたしの質問に答えてくれる気になったようだ。あの頃と同じように真っ白いままの手が伸びてくる。前と同じまま、だけれど戦闘でついたような傷が手の甲についているのを見て、あたしはどきっとした。シーク様、前は不老不死を体現したかのように傷も髪も爪も肌の色もずっと同じままだったのに。あたしの顔に掛かった前髪をさらりと横に流すように梳いて、シーク様は口を開く。
「僕次第でどうにでもなるからだよ、ナエ」
「どういうこと」
「殺すことも、奴隷にすることも、解放することも、」
――娶ることだって、僕の自由さ。
そう言ったのの何処までが本心なのか、あたしにはわからない。
「姫様からは自由にして良いと言われている。僕のこの百年間の研究が役に立ったようで、その褒美にお前をもらったから」
シーク様はあたしをどうしたいのだろう。どうしてあたしを引き取ったのだろう。妹のように慈しんでいたとしても、彼の守る範疇にあたしがいるとは思えなかった。あたしの心を読んだかのようにその考えが脳裏をよぎった瞬間に、シーク様は苦笑してかぶりを振った。
「ナエを妹だと思ったことはないよ、前も言ったよね。お前の兄は、コーガだ」
「……コーガ兄は」
「死んだよ」
考えないようにと無意識にしていた名前が急に飛び込んできて、心臓が跳ねた。真っ赤に染まった視界が蘇る。二度浴びた血飛沫。目の前の虫も殺せないような白く華奢な彼が、確実に兄の息の根を止めたあの瞬間を思い出してしまう。
「僕が憎いかい、ナエ」
「わからないの」
わからない、もう一度あたしはそう言う。頭が考えることを拒否しているようで、どんどんと目の前が白くなっていく、シーク様の手がそっと目元に当てられる。「何も考えず、夢も見ず、今日はお眠り」魔法に掛けられたように、微睡んで、あたしは意識をまた手放した。