もう何をなくしたって生きていけますけど、

第五章:シーク

13.君が幸せになるところを見たかっただけ


 王家に生まれた双子で生まれた男女を『忌み子』として扱い始めたのはいつのころからだったのか、それはもう王家の長い歴史を知る者の中でもはっきりは分かっていない。その理由はおそらくは権力争いを避けるためだろう。ハイラル王家はどちらかというと女系の一族だ。女腹から産まれた子は確実に王家の血を引いているということと、ハイラル王家の女には特別な巫女としての力があるということが理由だろう。祖を辿ると女神の縁があるからというのも、ハイラル王家の女の立場を盤石にしている。
 シークは――その頃は名前すら付けられていなかったが――ゼルダの名を継ぐ姫と共に生まれた男の子だった。王家とシーカー族は相談の結果、彼の存在を隠すことに決めた。それが凶兆の兆しだと言われ、政治が乱れるのを恐れたのだ。だから公の場には一切出てこれないように地下牢に閉じ込め、教育を怠った。彼のことを知っていた一部の臣下は『忌み子は知恵遅れだ』と罵っていたが、シークの成長が遅かったのはその環境故だ。
 ゼルダと呼ばれる姫が彼の存在を知り、彼にまともな教育係がついてからの進化は目覚ましい。
 
 厄災ガノンが目覚め、ハイラル中が混沌に陥った時のことは、シークがわざわざ再度回想しなくとも良いだろう。だが、あの時に彼を拾った女は、どこか姫様の面影があったのをふと思い出す。決して顔の造形が似ているのではなかったが、彼を見る目に陰がなかったところだろうか。彼女がイーガ団としての立ち回り方を叩き込んだ。それは決して優しいものではなかったが、戦闘訓練や実践、それから彼が今後無限に近い時間を過ごすと知った際には、己を研究するその設備ややり方は、その後百年間彼を助けてくれた。
 歴代の総長へイーガ団の歴史を脈々と紡いでいく良い人柱として利用しようとした側面もあったろうが、そこに彼の主観が混ざってくることも覚悟の上だろう。良い意味でも悪い意味でも豪快な女だった。
 ナエはシークの知る限りその女に次ぐ初めての女総長であり、彼が見てきたイーガ団の女の中で最も彼女に似ている。豪快で、壁を作ってもそれを気にしないとばかりに話しかけてきて。
 だからシークは今まで以上に、意図して彼女に偏向的な考え方を植え付けたのだ。今までのイーガ団ではだめだと。もし勇者がガノンを打ち破ったなら、もっと違うものにできるように。研究の成果は出ていた。勇者が活動を再開していると聞いて、姫様に聞く彼がもう一度ガノンに挑んだなら、世界は平和を取り戻すだろうという予測も立っていた。
 そうなれば当然シークは彼が一番大切な姫様の下へはせ参じるつもりではいたけれど、その時に危険思想さえ持っていなければ、ナエにだって温情を与えてもらうことが出来るかもしれない。
 彼女がどう思っていたかしらないけれど、彼女が本当の意味でシークを慕う前から、彼はナエのことを妹だなんて思ったことはなかった。彼女をシークの特別にするつもりはなかったけれど、そう考えていた時点で、もう手遅れだったのかもしれない。イーガ団のアジトを旅立つ時には既に、もう彼女のことを手放したくないと思っていたんだから。
 
 
 
「でも、シーク様って王子様みたいってずっと思ってたの」
 そう無邪気に言った彼女を、どんな顔で見つめてしまったのだろうか。シークは分からない。ただ、あの時のことを思うと、胸に今まで感じたことのない痛みが走る。表情は固まっていたのは十分に分かった。自分の過去なんて、生まれなんて、冗談で片づけるつもりだった。僕彼に家の血さえ入っていなければ、幼少にあんな経験をしなければ、彼が全てが姫様だと強固に思いこまないと生きてることさえ許されないような立場でなければ、ただの普通の人間でさえいれば、何も知らずにこにこと笑っている目の前の馬鹿な女に素直に惹かれることが出来ていただろうに。
「僕の何処が王子様だっていうんだい」
「ご、ごめんなさい、シーク様。傷付けるつもりじゃ、」
「答えて」
「……あたしにとって、救世主に見えたの。この閉塞した空間の中で、唯一きらきらとしたひと」
 きらきらとしているのは髪色だけだろうに。そのほかは間違いだらけだ。シークのいるところほど閉塞した空間はないし、ナエにとっての彼はいずれ死を司る神か、それとも破滅を呼び込む魔物になるはずだ。
「僕にとってお前は、姫にはなり得ないけどね」
「ええ、それはもちろんですとも。だって、あたしたちから見てお姫様とか王子様は一人だけれど、お姫様とか王子様から見て有象無象の人々はたくさんいるでしょう?」
 そういうことじゃなくて、とは言わなかった。お前はそれにすらなっていないんだと告げればこの娘は、今度はどんな表情をするのだろう。彼女はシークにとっての自分の価値を、あまりにもわかっていなさすぎる。それを告げたって彼は構いやしないのだけれど、だからと言って何が変わるわけでもないので言わなかった。
「王や王子というのは、何を持ってそう呼ばれるべきなんだろうね」
「血筋や権力も必要かもしれないけれど、きっと貫禄だって思うんです。あたしは」
 口を大きく開けて、鮮やかに笑ってみせたあの子はシークは違う人種だし、記憶にある姫様とも全く違っていた。
「だから、シーク様は十分その要素がおありですよ。なんせ、あたし達イーガ団の裏のご意見番で在り続けてくださったのですから」
 僕にとっての姫様にはなりえないけれど。
 僕がそんなことを望むなんて、そんなのいけないのだけれど。
 そんな権利、在りはしないのだけれど。
 僕の隣に誰かが立ってくれるというのなら、この言葉をくれた彼女が良いと、はっきりとシークは思ったのだった。
 
 
 

14.手を伸ばして届いたことなんか一度もない

 


 いつもは専属の騎士――ハイラルの平和を取り戻した栄光のある従騎士――のみが側へ控える女王の執務室へ彼が呼ばれたのはその年の、特別に暑い日の夕暮れだった。太陽が照り付けているのにひたひたと雨が静かに降る不思議を廊下の窓から眺めながら歩む。部屋へはいると、彼の姫様とその護衛は当日の執務をすでに終えていたようで彼を待っていたようだ。礼をして彼女の机の前に立つ。
「待っていたわ、お兄様。いえ、シーク」
「姫様。本日のご用件は?」
「そろそろ、実働的な梃入れをはじめようと思うの」
 それだけでシークが把握できるはずもなく、その隣に立っているくすんだ金髪の男を見た。『勇者』として分かりやすく活動するときに好んで着る薄青色の英傑の服を着て立っている。シークの問いたいことなんて分かり切っているだろうに、どうした? と言わんばかりに首をかしげる。
「指令はなんだ?」
「敬愛なる我が君よ、この若者にお伝えしてもよろしいでしょうか?」
 芝居がかった動作でリンクがゼルダに尋ねると、彼女も変なものを見るような顔つきでリンクを見て「どうぞ」と告げる。そもそも普段リンクがゼルダのことを我が君と呼ぶことなんてまずないし、シークを若者と呼ぶのは彼のことを知らない人間だけだ。リンクは面白がるように、シークの顔を覗き込んで口を開く。
「イーガ団の殲滅だ」
「……承知いたしました」
 きっと彼はシークの事情もすでに把握しているのだろう。探るように彼の瞳を見つめ続けていたが、シークとてそろそろこの命令が下るだろうという予想はしていた。感情を隠すのに目を瞑るまでもない。冷静に、一つの揺れもなく承れると思ったのに、一瞬だけ間を置いてしまったのは失敗だったと、あとから思う。
「民間人には手を出さないように。あくまでイーガ団という組織が壊滅出来たらいいの。今は、無駄に血が流れるのを望んではいないわ」
「お優しいことで、我が君は」
「茶化さないで」
 彼女が心を痛めないようにと、裏でこっそりリンクやシークがどういうことをやっているか、きっとそれでもこの姫様は把握しているのだろう。必要なことだから止めずに、だけれど気遣いを無駄にしないように知らないふりをしてくれている。
 今回だって恐らくゼルダが予想しているよりも甚大な被害が出るに違いない。シークはそう思って、目を瞑った。脳裏に浮かぶのは花が咲くように大きく口を開けて笑うあの女。
「これが終わったら、シーク、あなたに褒美を出すわ」
「……姫様」
「受け取らないなんて、言わないわよね」
「……いえ、ありがたく頂戴します」
 姫様はにっこりと笑う。シークが欲しくてやまないあの女とは違う、高貴で上品な微笑み。なのに、何でだろうか。今から殺しに行くはずの、あの女のことが頭から離れない。
 
 
 

15.一生憎まれていられるならそれでよかった

 


 侵入を試みたのは即日のことだ。特に冷え込む砂漠の夜だった。とそこを根城にしていた人間と、かつてそのアジトを制圧した人間。そんな二人の男が挑めば、いくら武装集団といえども太刀打ちできない。末端の団員が素早く移動を繰り返しながら二連弓を使って攻撃を仕掛けてくるけれど、それを避けるのは容易なことだった。
 シークが針を使って飛び道具を主に扱う団員の息の根を止めている間に、長い刀身の剣を使う幹部級の団員をリンクが薙ぎ払う。隠れずに戦いを行なっていると当然、見張りは警鐘を鳴らしアジト中に侵入者を知らせるが今回はそれを厭わなかった。戦いたいのは総長級。アジトの攻略ではなく、イーガ団の壊滅が目的なのだから、むしろ侵入者が来たことが伝わるのが早ければ早いほど良い。
 幹部級をあらかた倒したら、リンクは先へ進む。虫のように湧いて出てくる末端の団員たちはシークが引き受けた。こちらを傷付けることすらできない程度の力量の人間が、数多く死んでいくのを無感動に見つめる。彼らの命を奪っているのは自分なのだ――ナエが知ったら、僕を憎むかもしれない――シークはここの総長となった彼女のことだけ考える。目の前の人間を殺すことにそれ以外の躊躇がない自分は、やっぱりおかしいのかもしれない。
 そんなの上等だと思いながらも戦い続けていると急に団員たちが撤退を始めた。追って殲滅しようかと身体が動くが、思い出す――あくまでイーガ団という組織が壊滅出来たらいいの――きっと逃げる人間は追うなという指示だったはず。息をついて武器を仕舞い、リンクを追う。かつて世話になっていた場所だ。無意識に強張っていた筋肉をほぐしながら歩いていると、先を任せたはずのリンクが障害物で身を隠しているのに気が付いた。リンク、と呼びかけようとしたら、静かにと言う様に彼は口元に人差し指を当てた。
「あたしに従ってるわけじゃないのよね、団員たちは」
 久しぶりに聞くあの女の声に、心臓が変な方へ飛び跳ねた。珍しくむっつりとした顔でしょぼくれていた過去を思い出しそうになってシークは意識して、現在へ考えを留めた。あの時らしくもなく励ましたシークの代わりに彼女を守るべき『兄』が笑いながら言うのを、息をひそめていると抵抗なく聞こえてくる。
「今にそうなるさ」
「……死にに行くくせに」
「分かってて、道連れになろうとしているくせに」
 それが分かってて、なんで止めなかったんだ! と叫びたくなる。『兄』は『妹』を守るべきものだろう? そう思うも、コーガは兄としての自分よりも総長としての自分を優先したのだ。そして、ナエもきっと、侵入者がシーク達だと知っていて、それなのにイーガ団の総長として敵対する立場を選んだ。
 彼女の全てを踏みにじると分かっていながら、ここにいる自分とお似合いじゃないか。
「これだけは言っておくが、ナエ。いい女だぜ、お前」
「やだ、コーガ兄。そんな年まで独身貫いたのってまさか、あたしに欲情してたからじゃないよね」
「だと言ったらどうする?」
 そこまで聞いて、シークは黙っていられなくなった。ナエは何度言い聞かせても、シークからナエに向けられている感情は兄からのそれと同等だと勘違いをしていたようだが、シークは自分の感情をナエよりかはもっと適切に理解していた。通常の男女のそれとは違うかもしれない。だが、守ってやりたい、幸せにしてやりたいと思う気持ちの分だけ、芯が強くて明るく豪快な女をこの自分が組み敷いて恐怖に怯えさせてやりたいと思うことがあった。
「それ、冗談でも不愉快だな」
 言葉と共に投げた針は末端の人間とは違い、コーガに簡単に弾かれる。刹那の瞬間にイーガ団御用達の鬼円刃を投げてくるのだから、流石は元総長と言ったところか。現役時代のように刀剣や鉄球のように重さのある武器で挑まれれば、危なかったかもしれない。鬼円刃の特徴ともいえる円形の空白の中心部に短剣を差し入れ、動きを止めてくるくると勢いを殺し、そのまま落とした。
 コーガの舌打ちを聞きながら、かぶりを振り、揺れる三つ編みを鬱陶し気に思いながらも、かかとに仕込んだ鉄板で激しく刃を踏みつけて使い物にならないようにしておく。これは見た目よりも簡単に壊れることをシークは既に知っていた。
 シークを煽るように、仮面すら付けていないコーガは挑戦的に視線をやって、言葉を発する。
「なんだ嫉妬か、シーク様よォ」
「そんな感情、僕には不要だ」
「じゃ、なんだって言うんだ」
「妹へ持つべき感情じゃないからだ」
「あんたがそう思うのは勝手だが、兄妹崇拝に巻き込まないで欲しいぜ」
 挑発に乗るまいと冷静でいようと試みたせいで、先手を取られた。彼の身体がもう使い物にならないというのは、シークが一番知っている。本当は立っているだけで精いっぱいのはずの満身創痍の彼はかろうじて三日月形の首切り刀を振り回したり、時にはブーメランのように投げつけたりして戦いを挑んでくる。手負いの獣が一番恐ろしいものだと思いながら「それでも、あたしはこの組織の長だ」強く叫んだナエの声に気を取られ、リンクとナエの様子を見ようと視線を外したその瞬間、手の甲に傷が残る。舌打ちして、一旦距離を取った。接近戦は分が悪い。
 少し離れたところから投げつけた針はことごとく避けられる。毒針だから掠りさえすれば動きを止められるのに、そんなこと向こうだって百も承知なのだろう。こうなれば、短剣で切りつけるしかない。タイミングを伺いつつも、やはり向こうが気になってしまう。コーガもそうなのだろう。
 視線の先に、リンクに押し倒されているナエがいた。悪趣味なリンクは最も効果的に脅してやろうという算段か。ここまで来る途中で、彼女の命まではまず取らないと彼から言いだしたのに、何をやっているのだろうか。それを知らないコーガは鬼のような顔をして彼らを見ている。
「ねぇ」
「……何よ」
「殺されるのと、犯されるの、どっちがいい?」
「……悪趣味」
「んん、両方ってことかな?」
 恐怖から身体中が痙攣し、声も震えている彼女はそれでも気丈に言い放つ。顔のすぐ横には剣を突き立てて脅しつけているのは、流石に見ていられずコーガの方を向いたまま「止めろ、リンク」止めに掛かった。殺しはしなくても、辱めることくらいするかもしれない男だ。
「分かった、分かりましたよ、シーク」
 ひとまずは脅すのを止めたようで安心した。「君はシークの褒美だからね」と何を指すのか良く分からない言葉の追及はあとですれば良いだろう。今はコーガを仕留めるのに集中しなければならない。
 圧倒的なまでの力で無力化されそのまま辱められそうであった妹の姿に動揺したのか、コーガはらしくない隙を見せる。こちらへ切りつけた腕の欠陥を狙って短剣を突き刺せば、血が飛び散るとともに彼は武器を取り落とした。勝機が無いと悟ったのだろう「ナエ、幸せになれ」掠れた声でそう言い、シークが首元を狙って放った斬撃はもう避けない。そのまま彼女の隣に倒れ込む重たい音。
 血飛沫が想像以上に散って、彼女をよごしてしまった。彼女は戦いを知らない、きれいなままでいてほしかったのに、辺りに充満する血の匂いで、頭がくらくらする。早く連れて帰ってきれいにしてあげないといけない。彼女を壊さないようになるべく優しく抱いて「任務は以上だ。リンク、帰るぞ」とやる気のない隣人に告げる。
「はいはい、承知しましたっと」
 彼女の肉親をこの手で殺して、彼女から一生憎まれるなら、それはどれだけ甘い感情なのだろうか。わからない。とにかく、今は何にも考えたくなかった。
 
 
 

16.消したい過去に縋って生きていること

 


 城の仮設の建物につく。彼女を連れて帰ってきたは良いものの、拷問をして情報を抜くのか、どういう扱いをするつもりなのか、不明瞭で不安だった。だがリンクはあっさりと「部屋を用意しているよ」と言って案内してくれた。新たに雇い直された侍女に彼女の着替えや血のふき取りを任せ、その間に自分のよごれも落として着替えてくる。意識を失ったナエの様子が心配ですぐにでも駆け付けたいところだったが、彼女のもとへ行く前に確認しなければならないことがある。
 姫様の執務室へ足早に歩き、入室の許可を得た。
「どうしたんですの、シーク」
「あの女のことです。彼女をどう扱うおつもりですか」
 通常にあらず、彼の姫様がまだ書類と格闘している間に息を継ぐ間もなく尋ねたものだから、シークのその珍しい様子にゼルダは驚いて目を丸くする。
「彼女というと、イーガ団の総長ですか」
「その通りです、姫様」
 該当者は彼女しかいないとばかりに頷いたシークに、ゼルダはくすくすと笑いをこぼす。「そんなに彼女がだいじなのね」「そんなんじゃ、」短いやり取りは揶揄いが含まれていたものだけれど、シークの中の焦燥感が増していく。この百年、いや生まれた時から彼の身はゼルダのためあると同然だったのに、彼女以外の女の話をゼルダの前で持ち出しているのがそもそもおかしいのだ。
 シークが自分の中に湧き出してきた混乱と戦っているのも気にせずに、ゼルダはあっさりと言い放つ。
「彼女の処遇はね、あなたに一任しようと思うの」
「……というと」
 思考に捕らわれて、大切な姫様へ反応が遅れてしまったのは一つの過ちだったと思った。が、すぐに目の前に意識を戻し、その真意を探る。
「リンクが言っていたのでしょう、あなたへの褒美だと」
「はい」
「その通りにしようと思って。便利な部下として使っても、危ない存在なら消してしまっても、あなたの隣に置いたとしても、構わないわ」
「それは……」
「だいたいあの女性から得られる程度の情報なら、あなたから得られている筈なのよ。違う?」
 的を得たゼルダの推察に違うとは言えなかった。じゃあ、彼女をほとんど無傷で捉えたのは自分のためだったのかと考えて、それに対してなんて感情を持てばよいのかが、シークには分からなかった。込み上げてくるものはあった。これは安堵なのか、それとも歓喜か。
「それにあの女性があなたに食事を持ってきてくれていたおかげで、わたくしが持ちこたえられたのは間違いない。敵といえども、褒賞に値すると思わない?」
 だから恩赦を与えることにしたの、とゼルダは言う。シークは黙ったまま頷いた。
「あのね、それにこれはあなたの妹としての意見なのだけれど――わたくし、昔のお兄様よりも、彼女に振り回されているあなたの方がすきなの」
 そこまで言われてしまってはシークには何も反論材料はなかった。もとより彼は彼女の身を案じてここまで来たのだから、全権を預けられるのには異論はない。だけれどそれはシークの全てをゼルダに捧げるという百年前の彼の誓いを破ることになりかねない。ゼルダがこうして自由の身になった今、触媒や養分としてではなく、一人の臣下として身を粉にして彼女に尽くす気でいたけれど、ナエを隣に置くとなると、きっとそうではいられないことを、シークはもう知っていた。きっとゼルダもそれを知っている。知っていて、それを望んでいるのだと分かってしまって、彼は紡ぐ言葉をなくしてしまった。
 話は以上とばかりにゼルダが執務の続きを始めたので、シークは邪魔にならないように礼をして退出する。そのまま、ナエへ与えられたという部屋へ向かい扉を開こうとしたが、逡巡する。彼女の顔を見る前にけじめをつけようと思った。あの時コーガにつけられたまま消えない手の甲の傷をなぞる。そしておもむろに短剣を取り出して、今も結ってある三つ編みを根から切り取った。昔だったら気が付けば戻っていた長さは、もはや普通の人間のようにしか伸びないだろう。重さのなくなった頭部は軽く、何かから解き放たれたような心地がする。首筋に通る風をむず痒く思いながら、
 そして、扉の取っ手に手を掛ける。開くのを一瞬だけ躊躇した。彼がどんなにナエを求めていたとしても、彼は彼女の兄の仇だ。殺したい程憎んでいてもおかしくない。だけれどこのまま立ち竦んでいても仕方がない。躊躇っている間に、彼女が起きて出す気配を読めたので、観念してそのまま中へ入る。部屋という名の牢獄だったらどうしようかと思ったが、施錠はしっかりと出来るものの、きちんとした造りの広い部屋で蔑ろされていないことにほっとする。
ナエ、起きたかい?」
 唐突な問いだったが、彼女は来訪者が誰だかわかったようだった。普段は良く喋るナエの「はい」という短い返事は彼女の中の混乱をそのまま表していると感じた。
「気分はどうだい?」
「最悪じゃないのが最悪」
「そう」
 彼女の言葉回しには慣れたもので、それなりに良好だと判断する。カーテン越しだと様子を伺いにくいので、不躾だとは思ったが、ベッドの天蓋からおりるカーテンの間を縫って彼女に近づいた。直接見たナエの顔色は思ったより悪くない。
「あたし、どうなるの?」
 ナエの問いには曖昧に返事をする。シーク自身がまだ決めかねていたからだ。そして、ナエがどうしたいのかもわからなかったから。本当はここから出して、もう二度とシークと関わらないような道を選ばせてあげたほうが良いのかもしれない。コーガの言った通り、ナエは良い女だ。外の世界で、女としての幸せを見つけることなどたやすいだろう。その反面、思う。きっと外の世界に出してしまえば、イーガ団を捨てることなんてできやしない。逃げ落ちた人々の身を案じ、また彼らを殲滅しなければならないかもしれない――そうなってしまえば、もうシークは彼女を庇えない。
(そうやって理由を付けてるだけだ)
 自分の隣に置く理由をこじつけて探しているだけだと、シークは知っている。だから、「ナエを妹だと思ったことはないよ、前も言ったよね。お前の兄は、コーガだ」と挑発する。唯一の肉親を殺したのは自分だと思い出して。思い出して、その上で僕を選ぶと言ってくれ。都合の良い考えだと分かって上でシークは祈る。
 どうしたいのかが、シークのことが憎いのかすらわからない、わからないのと繰り返したナエの顔は蒼白になっていく。無理をさせ過ぎたと気付いてそっと目元に掌を置く。現実なんて、今は見なくて良い。今は無理せず、何にもない夢の中に落ちて、そして僕の手の届くところで眠っていてほしい。シークはただそう思った。
 
 
 

17.守れないとしても失いたくはない

 


 彼女の部屋が襲撃されたのは、ここへ連れてきて数日後のことだった。身元は隠したはずだが、どこからか噂は流れていくものだ。今回は偵察を兼ねていたのか手練れはいなかったらしく、シークが駆け付けた時には既に彼女自身で撃退したあとだった。部屋の中心部から窓に向かって敵を蹴飛ばしたらしく、窓のガラスは割れている。自身には怪我はなかったようだが、散乱したガラスと息の上がった彼女の様子から争いがあったことがうかがい知れる。ベッドから離れ、部屋の中央部にそのまま立つ彼女に近寄ると、ナエは苦笑しながらつぶやいた。
「やっぱり、当然狙われるわよね。いろんなところから恨み買っているし」
「今回はこちらの落ち度だ。お前を狙ったのは、王家の臣下の一派らしい」
「隠さないんですね、シーク様」
「隠したところで、身を守る障壁になるだけだろう」
 シークが淡々と言うと、ナエは寂しそうに笑う。「もう身内もいないし、ここでお世話になっていても迷惑になるだけだと分かっているんです」それでもここから出ようとしないのは、それを頼んでこないのは彼女に黙ってリンクとの会話を盗み聞きした通り、彼女が少なからずシークに執着しているからだろう。
 そろそろ潮時だろう。避けてきた会話をなるべく刺激にならないように、シークはいつも以上に淡々とした口調で切り出す。
「お前のことを大事に守っていたコーガも、もういない」
「わかってる」
「これから、お前はどうしたいの?」
「言ったらシーク様は叶えてくれるわけ?」
「内容による」
 きっと彼女だって何も考えていなかったわけではないのだ。何らかの結論を出さなければならないのは、彼女もシークも同じでその中から折衷案を探していく。もっと早いうちからそうしなければならなかったのに、シークもナエもそこから逃げて怠ってしまった。だから想定されてしかるべき襲撃を許してしまった。
「あたし、いろいろ考えたけど、シーク様の側にいたいの。生きるにしても、死ぬにしてもそれはシーク様から齎されるものでありたいんです」
 彼女の生殺与奪を握っているのはシークで、彼女が如何したいとしてもそうだったのは間違いないが、改めて彼女から希望されることに、シークは震えた。腹の奥底、深いところの耐えがたい何かがぐつぐつと煮詰まっていくのを感じる。彼女の考え方を日々、分かりにくいように矯正していたのはシークで、シークの食事の時間に少しずつ洗脳を施されていたことに気付きもしない彼女は真剣な表情で続ける。
「シーク様。イーガ団はどのみち、おそらくこの先あのままではきっといられませんでした。もう形もありません――だったら、あたしも望んで良いですか。イーガ団から解き放たれて、あなたに手を伸ばすことを。今となっては、あなたの特別になれやしないと分かってはいるけれど、いざとなった時、あたしの命を、全てを奪うのはあなたであってほしい」
 命こそあるとはいえ、思想も、肉親も、何もかも、既にもうお前の全てを奪いきったあとなのだと告げる気にはなれなかった。代わりに「約束しよう」と淡々と告げて、もう一歩彼女に近寄る。戸惑っていることはわかっていたが、手を伸ばす。コーガに傷付けられた痕はもうほとんど治っていることがこの結論に至るまでの時間を物語っている。髪を梳くように彼女の後頭部に手を入れて、シークは顔を寄せた。反対の手は茫然と垂れ下がっていた彼女の手を取り、指と指を絡めて繋ぐ。唇の薄い膜同士が合わさるだけのこの行為に意味などないと思っていた――なのに、どうしてこんなに蕩けるほど気持ち良いのだろう。接吻に耽る人間の気持ちを、シークは初めて知った。