もう何をなくしたって生きていけますけど、

第六章:ナエ

18.救われたのが僕一人では不足ですか


 部屋の中でひとり、指先で唇をなぞってシーク様に口付けられた時のことを思い出す。彼は何を思ってその行為をしたのだろうか。シーク様があの赤い瞳の奥に湛える慈しみの籠った熱は今までと同じだったし、そうであるとするならば、もしかしてあたしの自惚れじゃなければ、シーク様はずっと、あたしのことをだいじに思ってくれていたのかもしれない。今までもずっとあたしに与えてくれていた慈しみは妹を見る目ではなく、もしかして――そういえば、お前の兄はコーガだと何度も繰り返しあたしに言っていたっけ。
ナエがそう決断してくれたなら、もう迷わない』
 そう言って王家に連なる者たちからの危険は全て排除すると言ってくれたシーク様だけれど、それ以外にもあたしが危険にさらされる要素を確信しているようだった。まずは一つずつと言わんばかりの言い方に何か感じるものがあったのだ。
 だからその夜、寝付けずに中庭を散歩しながら――無防備だと言われるかもしれないが――赤い月を眺めていた時に、近寄ってきた彼らがもしかするとシーク様が危惧していた危険要素なのかもしれないとすぐに気が付いた。
 大柄でごつい男が複数名、気が付いたらあたしを取り囲んでいる。
「お嬢」
 こんな時にも、こうなってさえも彼らはあたしを総長と呼んでくれない。
 そんなことを悩んでいた時期が懐かしくさえ思える。あたしは彼らとは決別するつもりで今、ここにいるのだから。命令をよく聞いて逃げ延びた元・イーガ団の面々はあたしを迎えに来たのだろうか、それとも――
「お嬢。お嬢の指示通り、我々は逃げ延びてそれぞれ街に潜伏しています」
「……それで?」
 あたしが挑むように促すと、さらに人が出現する。軽い身のこなしの下級構成員だ。それを見ながら先ほど話しかけてきた幹部の一人を見ると、黙るつもりも向こうにはないらしくそのまま続ける。
「お嬢はこちら側へ帰ってくるおつもりはあるのですか」
「どういうこと」
「諜報部から、あなたが総長という立場でありながら、勇者や王家ゆかりの者と慣れあっているという報告が上がっています。現に、今も」
 捕虜という立場ではないのでしょう、と言う彼らはあたしの答えをもう知っているようだった。それでいて、武器を手に取ろうとしないのはこの人数を相手にしてあたしが勝てないと思っているからだろう。
「裏切り者には制裁を与えねば。それはイーガ団の掟だったでしょう?」
「あまり甘く見ないでほしいわね。これでも、あたしはあんた達の長という立場だったのよ」
「コーガ様がいらっしゃったから、与えられた立場でしょう。人も殺せぬ者の何処を恐れればよい?」
 何処から漏れたのか、あたしが人を殺すことに抵抗があるということを、こいつらは知っていた。無論その情報を掴んでないとは思っていなかったけれど、さて、あたしだってここで死ぬつもりはない。勝てなくても、どこか逃げ延びたいところではある。それに、彼らの言う通りだ。この場合、裏切り者はあたしで、あたしが処分される立場であるのは間違いない。あまり、彼らをも傷つけたくないのだけれど。
「まずは生け捕りにさせてもらおう。王家の情報を引き出してから――処遇を考える」
 そう言って幹部の一人があたしの方へ手を伸ばす。多少傷付いても構わないと考えているのか全員、それぞれにあった武器を構えあたしを取り囲んだ。あたしも重心を低く保ち、どこか隙を探す。「ナエ!」
 あたしの大好きな人が、あたしを呼ぶ。それで出来た隙を縫ってあたしは、自分を取り囲む中心から抜け出した。間髪入れず、何本も投げられるシーク様からの針は下級構成員の何人かにはあたったが、流石に幹部級の人間には避けられたようだ。
ナエ、こっちだ」
「シーク様! でも彼らが、」
 あの人数で追ってこられてはあたしたちも逃げきれまい。それでも伸ばされた手を掴んでシーク様に並んで走り出す。シーク様が危機的状況にやってきて迷いなく逃げ道を案内してくれることを冷静に考えると、きっとあたしは自由にさせたように見せて、囮にされていたのかもしれない。それが真実だったとしても、あたしはきっと彼を嫌いになんてなれない。
「奴らは俺に任せといて。イーガ団として活動する意思のある連中は全員、葬り去るというのが王家の方針だからね」
 やっぱり出てくると思った。闇に紛れる衣装を纏い、あたしたちがずっと狙っていた勇者が鞘から剣を抜く。刀身は赤い月の色を反射して妖しく煌めいていた。
「ゼルダに逆らう奴は全員生かしておけない。彼女の前で血を見せるくらいなら、不穏分子は早めに処分する。死にたい奴から来いよ、痛くないようにしてやるからさ」
 走りながら彼らの様子を見ると、リンクに対峙するイーガ団の面々はじりじり後退を始めていた。実力差は安易に分かる。変にとびかかっては、犬死するだけだ。前回は逃げるものは追わないリンクだったけれど、今回は違うらしい。逃げようとしている彼らにゆっくり近づいて剣を振りかぶった。「言っただろ、今回は全員だって」飛び交う悲鳴にあたしは振り向くのを止めた。
「行こう、ナエ
「はい、シーク様」
 今夜、イーガ団という組織は本当の意味で壊滅した。
 
 あたしはイーガ団の総長として、何も守れなかった。
 先祖代々受け継いできたもの、あたしの代ですべて壊してしまった。
 
 でもそれは、あたしの選んだことだった。
 
 

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19.決して君を見縊っていたわけじゃない

 


 連れてこられたのはいつもの仮設地ではなかった。
 洞窟を利用して作ったような大きな空間で、魔法で入り口が隠されていたのであたし一人だと只の岩だと思って気が付かなかっただろう。
 中は、どこかイーガ団にいた頃のシーク様の隠れ家に近くて、食事用の机こそなかったものの、奥に研究用の机、周囲に何枚も紙が貼ってある。その横には簡易的な寝台が置いてあり、きっと常時使っているというよりかは仮眠用のそれなんだろうと判断する。
「シーク様、ここは?」
「隠れ家のひとつ。ゼルダとリンクしか知らない」
「そうなの……」
 シーク様が研究机に付属したこの空間にある唯一の椅子に座ってしまったので、あたしはどうしようかと思って立っていると「座っていいよ」と寝台を指さされたので、遠慮がちに腰掛けた。彼はひどく疲れたようにあたしの方を見て、ため息を吐いた。
「今度こそ、お前は僕を見限っただろうね」
 何のことだか一瞬分からなかったけれど、先ほどあたしを囮に使ったことだと気が付いた。
「本当にそう思って言ってますか、シーク様」
「いいや……そうであれば、お前を手放せるのにと――いや、もう手遅れか」
 シーク様は本当に疲れているようだった。こちらを見る赤い瞳はどこか陰っているのに気が付きつつも、何も言わない。疲れさせているのは、きっと自分だから。
「僕も試されていたんだ。ゼルダと、リンクに」
「どういうこと、」
 あたしが聞こうとした言葉は遮られる。いつの間にだろう、椅子に座っていた筈のシーク様は立ち上がってあたしの方へ近寄っていた。目線を合わせるようにかがんで、いつかのように後頭部の髪を梳くように指先を差し入れる。彼の手の甲にあった傷はすっかりと良くなっていたし、急に近づいた顔の横、いつぞやよりも少し金色の髪が伸びていたことに気が付いたが、それを指摘する前に唇が合わさっていた。ふくよかな下唇が触れたかと思えば、その間から舌が遠慮がちに這い出てくる。そっと上唇が舐められて茫然としている間に、シーク様は唇を離した。
「お前が、僕にとってどれだけ重要な存在かってことを試されてたんだ」
「あたしが許さなかったらどうするつもりだったんです」
「それも全て試されていたんだよ、ナエ。僕は、お前を僕から離れられないよう知恵を与えたはずだよ」
「それは、」
 たしかにシーク様は成人してからのあたしを育てたと言っても過言ではなかった。もっと言うなら、早くに母親を亡くしたあたしを育てたのは歳の離れた兄だったが、きっとコーガ兄を通してあたしを教育することだってできたはずだ。いずれ来たる、勇者復活の時に向けて――
「あたしはシーク様に操られていたの?」
「いいや。そうだったら良かったのに。そうだったら、僕がこんな感情を持つことはなかった!」
 シーク様は傷のなくなった手であたしの手首を引いた。勢いが激しくてよろけてしまう。長い付き合いだったのに、彼の激情を見るのは初めてだった。戸惑っているあたしなんかどうでも良いかのように、体勢を崩したあたしを受け止めてそのまま抱きしめた。
「お前の全てを奪ったって、お前は、君は、僕を嫌ってはくれない。憎んではくれない! 憎まれればそれで良いと思ったのに!」
「……あたしは、どうしたってシーク様のことが好きなんです」
 混乱を極めたシーク様の叫びに、あたしはゆっくりと静かにそう言った。骨が折れてしまいそうなほどきつく抱きしめていたシーク様は、はっと気が付いたようにあたしを離し、顔の見える位置まで下がる。あたしの両肩に手を置き、シーク様はじっと何かを探るようにあたしを見る。
ナエ、」
「あたしはシーク様のことが好きなんです」
 シーク様は、どうなんですか。あたしがそっと問いかけると、シーク様は一瞬泣きそうな顔をして、そして目を細める。彼の中で処理しきれない感情が今までにないほど荒れ狂っているのを感じながら、あたしはそこから目を離さなかった。
「僕も、ナエのことが好きだよ」
 ごめんね、と謝られたその意味を問い返すのは、無粋だろう。あたしは返事の代わりに、シーク様ほどうまくできないけれど、つま先立ちして背伸びをし、今度はあたしから触れるだけの口づけを贈った。
 
 
 
 

20.どうしても貴方だけはだめなんです

 


 そういうわけで、あたしは成人してからこちら惚れてしまった男に、居場所も、組織も、立場も、肉親も、心も、全てを奪われてしまったわけなんです。
 もうあたしが持ち合わせるものなんてほとんどありはしないし、奪われるのにはすっかり慣れてしまいました。
 だから、もう何をなくしたって生きてはいけますけど、
 
 「シーク様」
 「ナエ、今日はどうしたの?」
 「今度はなくすばかりだけじゃなくって、つくってみるのはどうですか?」
 「何を?」
 「子どもです。子ども!」
 「僕に生殖機能はあるのだろうか……。そういえば、ナエ、総長の家系もそれが怪しいという会話を、」
 「あー、もう! シーク様ったらいっつもそうやって、はぐらかすんだから」
 
 どうしても、あなただけはだめなんです。
 だから、ずっとあたしが死ぬまで隣にいてくれないと、赦してあげません。憎んでもあげません。
 そしてどうせあたしが死ぬなら、あなたの手であたしの持つ最後のもの、たったひとつの命まで奪いつくしてくださいな。