歩く蜉蝣

揺らぐ陽炎 (1.

 しとしと。降り止まぬ小雨に、鬱屈した気分を抱えながらも、夜のロンドンの街を歩く。

 ダイアゴン横町から少し外れた通りに、社宅に近い一人暮らし専門のアパートがある。社宅という表現をしたものの、それは俺が働いているフロイヤーリシュ・アンド・ブロッツ書店が抱えている訳ではない。魔法使いというのはその性質上、距離の関係から実家を離れるということはほとんどなく、それ故にマグルに比べると一人暮らしをする人間というのは限られて来るのだ。だから、ダイアゴン横町の組合が、ダイアゴン横町に勤める人間が借りることの出来る安価なアパートを共同経営しているって訳。
 俺はちょーっとした事情から、実家を出てそのアパートを借りている。ま、別に実家に帰っても良かったんだけどさ、学生生活7年間、実家の両親放ったらかしてほっとんどホグワーツに居たから今更帰りにくいんだよ。実家は英国の外にあって、だから帰るのが面倒くさかったんだよな。だって、あの時、俺、姿くらましまだ習得してなかったし。実家は、英国式の魔法使いじゃないから、暖炉がそもそも家にないし。

 しとしと。しとしと。強くも弱くもなりやしない、雨は一定の感覚で降り続けている。深い霧が包み込む、このロンドンの街は嫌いじゃない。母国のじめじめとした雨は正直苦手だったけれど、なんていうか、空気の味が違うんだよなあ。っと、言っとくけど、母国も嫌いじゃないぞ。
 閑話休題。職場から歩くこと数十分、我が家に到達。杖を振って鍵を開ける、既に慣れきったその動作にはもう頭を使う必要は無い。何にも考えず、無意識、無感動にドアノブを捻れば、そこでようやく異変に気が付いた。

(明かり、消さずに出て行っちゃったっけ)

 マグルの使う気電だっけなんだっけーーマグル学で習ったけど忘れちまったーーあれみたいな便利な物は無い訳で。消さなかったら、つまり火が燃え移ったりする可能性があるってこと。ひやっとしたものが背筋を這ったけれど、それを落とすように身体をぶるぶるっと振るわせた。しかし、すぐにそれは杞憂だったと知る。「おかえり」淡々と抑揚の無い、けれど耳に心地の良い声が静かな部屋に響いた。思わず俺はぱちくりと目を開いて、彼女を見つめる。学生時代よりも随分と伸びたくすんだブロンドの髪の毛が、首の動きと連動して肩からさらりと落ちた。

「おかえり、コムギ

 俺の返事が無かったせいだろう、彼女はもう一度そう言った。「た、だいま」思わずつっかえてしまったけれど、変に思わなかっただろうか。いくら彼女がこういうことに気にしない、とは言っても俺にだって人並みの恥ずかしさっていうのはある訳でーーというか、何で彼女がここにいるんだ。いや、鍵の解除魔法を教えたのは俺、だけれども。今までずっと来なかったから、もう来ないかとばかりーー俺の心中を察したのか、いつも驚いたように開いている見透かすような銀色の瞳は、そのまんま俺を射抜いた。

「明日、研究が入ったから、それでだめになったって言いにきたんだ」

 ああ、なるほど。彼女は俺との約束がダメになったことを伝えにきてくれたのか。せっかく、休みが被ったと思ったのに。すこし悔しい想いが胸の内にあるけれど、それをぎゅっと押し殺してなるべくふつうに見える表情を装って笑った。「また、スキャマンダー氏と一緒か?」「ウン。あ、ロルフも一緒だよ」一応、というように付け足されたその言葉。肺の中に砂が溜まっていくのを感じた。ざらざらとした、どうしようもない、ろくでもないものを除去することが上手く出来ない。

「アー、ロルフってのは、」

 何を言っているんだ。何を聞こうとしてるんだ。単純に、彼女の仕事仲間ってだけじゃないか。でも、彼女が今までのどんな相手よりも嬉しそうに話すもんだから、俺は冷静さを失ってる。そういう自覚、ある。言いかけた言葉をぐっと自分の中に閉じ込めて、にっとわらうことにした。

「ルーナ」
「なに、コムギ

「俺のことはいいけどさ、ルーナ、お前むりだけはすんなよ」

 そう言って、彼女の隣にそっと腰を下ろす。その長い波打つような髪の毛をさらりと指先で梳いてやったら、彼女はまるで人慣れした猫のようにそっと目を細めて、こてんと俺に体重を預けた。とくん、とくん。ひとよりも少し低い彼女の体温。指先から、預けられた背中の洋服越しから、血を送り出す振動と彼女の冷たさがひんやりと伝わってくる。けれど、触れた場所は、カッと発熱したように熱を持って何とも言えない不可思議な温度が俺の心臓をざわざわと刺激した。


「我慢させて、ごめん。コムギ

 ああもしかして。俺は、彼女のことを少し見くびっていたのかもしれない。








     □ ◆ □








 彼女が帰ったあと、何処に行ってたのかしばらく見なかった相棒、ワシミミズクのロイヤーが帰宅を主張するように、くちばしでカチカチと窓ガラスをつついた。「ったく、心配してたんだぞ」ぐちぐちと言いながらも、帰ってきたのが嬉しくて手を伸ばす。エサをちらつかせると、おとなしく腕に乗るんだから可愛いもんだ。昔はあんなにも小さかったワシミミズクがこんなにも立派になったことにちょっと感動しつつ、肉を突いているロイヤーを眺め、気付く。(あれ、片足に包帯が巻いてある)怪我でもして、帰って来るのが遅くなったんだろうか、というかそういうことなら、この手当てしてくれたのはどっかの家の魔法使い(おそらく、だけれど。マグルや他の種族だったらこの気まぐれな相棒がおとなしく手当てなんてさせないだろうから)か。

「ったく、どこでなに引っ掛けてきたんだよ」

 ロイヤーは小さく鳴き声を上げた。あっれぇ、いつもよりなんか弱々しいんじゃねーの。借りてきた猫のようにおとなしくなった相棒は、そわそわと飛び回ってカチカチと神経質に嘴を鳴らした。「放っといてよ」そう言わんばかりに、女王様のように彼女はもう一度、俺に向かって鳴いた。あ、すっかり言うの忘れてたけど、ロイヤーはメスのワシミミズクな。








     □ ◆ □







 そんな深夜にご近所迷惑のようなやりとりを相棒とした後、ようやく寝付いた俺を起こしたのは窓ガラスをカチカチと鳴らす音だった。んだよ、めんどくせーな。お前が夜遅くに帰ってきたから俺は未だ眠いんだよ、おとなしくしてろよ。相棒のロイヤーが外に出たがってカチカチカチカチ言わせてるのかと思って、薄目を開ける。
 あいにく窓は西向きなので、明け方はあまり太陽の光が入ってこないのだけれど、それでも未だにきちんと機能していない俺の目を焼くには十分な日差しが窓をすり抜けていた。ロイヤーは窓ガラスの近く、普段はあんまり利用していない彼女の巣箱ーーの上にとまっていた。まあ、つまり、いまだカチカチと音を鳴らしているのは別のフクロウ、っていうことで。

「は、なんで……」

 顔見知りではないワシミミズクがカチカチカチカチと一定のリズムで音を奏でていた。それを眺めているように見える相棒は、ちょっと落ち着かなさそうにそわそわしている、のを気取られないようにしているようだ。(興味ないわよ)なんて言いたげに、ふいっと窓に背を向け、そのくせ時折振り返っているのだから。
 かわいいなあ、お前。ある種、親バカのような気持ちを抱きつつ、窓を開けてやった。すると、そのワシミミズクはようやく達成出来た、とでも言うように俺のそんなに広くない部屋を自慢げに旋回、後に俺の前に手紙を落とした。
 ああ、手紙を届けてくれたってことか。それはそうだ、こんな立派なワシミミズク、そりゃ飼っている人もいるだろう。爪は伸び過ぎてはいないようだし、なにより羽がつやっつやしている。野生では出来ないだろうね。あと、マグルのやり方でも。

 手紙を渡せば、どうやら俺からは完全に興味を失ったようで、見知らぬフクロウはロイヤーの方へ行ってなにやら彼らの間でしか分からないようなやりとりを行っていた。
 なんだか、仲間はずれにされたような気分で、というか実際仲間はずれなんだけど、俺は俺で人間、それも魔法使いから届いただろう手紙を読むことにした。
 どこかで見たような紋章、そのシーリングをペリッと外して、封を開ける。『飼い主殿へ』そう書かれた一文から始まる手紙には、ロイヤーがどのようにして、手当てをしてもらったのかっていう詳細が書かれていた。あー、なんか知らないとこで相棒が世話になっちまったみたいだな。これって、お礼したほうが……やっぱいいよなあ。
 でもこれ、封筒やら便箋やら見る限り、結構上流階級っぽくて俺の少ない手取りとじゃあ比べ物になりやしないってのが、すぐに分かる。

「っていうか、自分がしたのは応急処置だから、専門家にきちんと見せた方がいいって……そりゃそうか、ルーナにでも頼んでみるかなあ」

 手紙の相手は親切にそこまで書いてくれていたわりに、自分の名前を書き損ねたらしい。わざとかそうじゃないかは知らねえけどな。
 ってことはつまり、宛先はこのフクロウしか知らない訳で。いや、もしかしたらロイヤーも知ってるかもだけど。

「おーい、お前。ちょっと待ってろよ。すぐちゃっちゃか返事書くから」

 俺がそう叫んだら、手紙を運んできた雄のワシミミズクは了解したとでも言うように、ホーと鳴いてそれからまたロイヤーに向き直った。仕方がないから相手をしてあげる、と言った態度で、けれどもまんざらでもない様子の俺の相棒。そんな姿を見るのは初めてだから、ちょっと嬉しい。
 そういや、ちょうどこの時期は繁殖期だっけか。もしかしてロイヤーが卵を産むって、そんなこと、俺は考えたことなかったな。そこまで思考を持って行った時、どうしてだかどきりとした。

 だってそれは、俺とルーナの関係もそうじゃないか。だって、そうだろ。まさかあのいたいけな13歳を抱く日がくるとは、あのとき一寸たりとも考えなかった。っていうのは、ま、嘘だけど。ガキの男なんざ、頭ン中、煩悩だらけだけど。
 でも、だってしかたないじゃないか。あの時からだいぶそのくすんだブロンドの髪も伸びて、顔つきも彫りの深い物になった彼女。あの時、俺が惚れ込んだときに比べてセックスアピールだって桁違いなんだ。考えないように、考えないようにしていたことが嫌でも芽吹く。
 もし、あのロルフとかいう奴が、彼女のことを好いていたら? 有り得るよなあ! だって、あのルーナだ。恋人の欲目じゃないけど、あの子はすっごく魅力的。とてもチャーミングでクールだ。時々、突拍子も無いことを言うけれど、そのびっくりとしたようにぎょろっと見開いたその瞳に見つめられると、クラッてするんだよ。ああ、彼女の言ってることは全部アリかも、なんてな。

「ま、でも、あの誠実なルーナがそんな簡単に手を出させるはずが無いか」

 ロイヤーは「馬鹿なことを考えてないで、エサを用意しなさい」とばかりに俺にすり寄ってくる。ロイヤーよりも一回り小さめのワシミミズクは、ロイヤーが相手をしてくれなくなったことにしょんぼりとしている。書き終えた手紙を手渡しに、そのワシミミズクに近寄ると、むっと何かを訴えるような目で見つつも、おとなしく手紙をがしりとつかんでくれた。
 悲し気に、ホゥと鳴く。ロイヤーは応えるように、カチカチと嘴を鳴らしたっきり、彼の方を見ようとしない。雄のワシミミズクは、諦めたらしく、窓から出て行った。大きな翼を広げ、空に消えて行く。

「あのなあ、お前。男って言うのは案外さ、繊細なんだぜ」

 不憫に思って思わず言うと、彼女は不思議そうにこちらを見て、そして大きく鳴いた。なんか、不覚にも泣けてきた。