歩く蜉蝣 (4.
不意にルーナの都合が空いた一日を、俺が無駄にすると思ったら大間違いだ。
真面目に店に貢献してきた俺は、突然の休日を取得出来る程度には書店からの信頼も得ていた訳で、久方ぶりに、ほんっとに久しぶりに、ルーナとふたりでの休日を迎えることが出来たってことを、思わずアーニーにまで報告しそうになったくらいだ。
どこかに行こうか、それも考えたけれど、それよりもルーナと二人の時間を大切にしたいと思った。結局いつかのように、俺の部屋に二人きり。けれど、今回は時間に追われることも、不安に押しつぶされそうなこともない。
手の触れられる所にルーナがいることが、どうしようもなくいとおしい。今すぐ引き寄せて、組み敷いて、俺以外には見せられないような彼女の姿を――そう思わないと言えば嘘になる。それよりも、もっとだいじにしたい時間があるだけだ。
「ルーナ」
「どうしたの、コムギ?」
狭い部屋の中、俺のベッドにちょこんと腰掛けている彼女の名前を呼べば、きょとりと不思議そうにこちらを見る。別に、やましいことなんて考えてないのに、どうしてだろう。心拍数がやけに上がる。言い出そうとしていることが、そうさせている。
彼女に告白したときも、心臓はこんなに変な動きをしなかった。あのときは衝動だった。みずから飛び出して、勝手に命を散らすカゲロウのように。俺の自覚しないうちに育っていた感情は、羽化した途端に変態して、そして果敢なく俺だけのものじゃなくなった。あの時、俺の初恋はしんだのだ。
「ルーナ」
ふるえる声でもう一度、呼ぶ。ルーナは、俺の心の準備ができるまで待ってくれるようで、何も言わない。びっくりしたようないつもの大きな目でこちらを見つめるだけだ。俺を見るときの銀色の瞳が煌めいているのが、どんなにうつくしいのか、彼女が知ることはない。勿体ないとは思いつつ、これこそが、俺だけの秘密だ。
「嫌ならそうと言ってくれて構わないんだ。俺も働き始めてしばらく経って、エート、経済的にも安定してきて、ようやく言い出せるんだけど――つまり、だ。ルーナ。一緒に住まないか」
「……本当に?」
「こんな情けない言い方を許してくれるのなら、ルーナ。結婚してくれるとうれしい」
出来る限り、はっきりと、ゆっくりと告げた。ルーナにきちんと届くように。あのときみたいな衝動ではなく、今回の俺には覚悟がきちんとあるのだと。考えた末で言っているのだと、彼女に伝えたかった。俺はもう、彼女に恋をしていない。
恋心のいのちは、とても短いものだった。かげろうが、その命を散らすように。エフェメラ、そのことばがとても似合う儚さだった。
ただ俺の恋心は、誰でも良い、何処でも良いと羽化した訳じゃない。幼生のうちに彼女を選んで、彼女に惹かれて、そうして育ったもの。誰にだって否定したくない。俺だけのものだった感情は、彼女と共有されることになり、そうして養分になった。
ルーナの返事を聞くのが怖かった。きっと頷いてくれるに違いないとは思いつつも、こういったことには俺は慣れていない。慣れていたって困りものだけれど。どくり、どくりと脈打つ全身の血液の流れる音が、やけに大きく脳内に響き渡る。何秒経ったのか、それほど経ってはいないはずだ。彼女はこの手のことを、無意味に引き延ばす性格をしていないのだから。周囲の時間が止まってしまったかの様な錯覚は、直にルーナが動くことによって正される。
ベッドに腰掛けていたルーナは、立ち上がり、椅子に座っている俺のところへテクテクと歩んでくる。存在を確かめるように、俺の手に触れ、頬に手を伸ばし――大きな銀色の瞳でもって、俺の顔を覗き込む。とても近い。緊張は最大にまで到達していて、指先の感覚がない。血が行き届かないせいで、ひどく冷たくなっていることに、彼女は気付いただろう。
「コムギがあたしで構わないと言うのなら、もちろん」
「それは……ッ」
「今のあたしは、コムギ以外には考えられないんだもン」
そんなに弱気にならないで、と両手で俺の手を温めるようにして包んだルーナ。俺のものよりも随分とちいさな手が俺を包む。遠くから見ているだけなら細くて綺麗な指、けれどそれが少し固くなっていて、細かい怪我があるのに改めて気が付いた。彼女はそういう職についているのだ、ということを改めて思い知らされる。と、同時に思い浮かぶのはあの男。
「本当は、ルーナにはスキャマンダ―みたいな男の方が良いのだと、ずっと思ってたんだ」
「ロルフ? ロルフはただのトモダチだよ」
トモダチとか、仲間とか。そういった類いのものに、ルーナが餓えていたのは知ってる、だから、そのトモダチという響きが、嬉しさに満ちあふれたとくべつなものだってことも理解出来た。きっと、俺は、傍にいるだけでルーナを苦しめていたに違いない。俺らはDAの一員で、仲間だったけれど、やっぱり俺らは自分達だけで完結してしまう所があったから。ポッターをはじめとしたグリフィンドールの奴らは、ルーナをちゃんと受け入れて、ルーナも彼らを受け入れてはいたものの、やっぱり寮も違うしね……。
そう考えると、きっと、ロルフ・スキャマンダーはルーナに、今まで誰も与えられなかった類いの愛情を与え、誰もいくことが出来なかった場所で関わっているのかもしれない。スキャマンダー自身がどう思っているか知らないけれど、俺から見て、彼の抱いているルーナへの感情は恋愛とはまた違う気がした。もちろん、年月を重ねることによって、恋愛に変わりゆくものだろうし、そうなって自然だけれど。そうだな、丁度マルフォイが言ったように、
俺は、良くも悪くも、ルーナにとってはトモダチになり得ない場所にいた。それが俺の衝動だった。俺の、選択でもあった。
言葉にならない俺の心中を察したのか、ルーナは心配を吹き飛ばすようににっこりと笑った。未だ包み込まれている手先から彼女の体温の暖かさが溢れてきて、きっとそれは彼女の心の温度とも酷似しているのだ。自分の手と手を組んだときには感じない、溶け出すような感覚。ちがう持ち主の手のひらと重ね合わせているからこそ。冷えきっていたにもかかわらず、今では汗がじわりと滲み出てきそうで、それがすこし恥ずかしくもあり不安だった。
「ロルフはきっと、背中を預かってくれるヒト。これからあたしが研究を続けていくなら離れられないひとだと思う。それでコムギに不安を掛けても、あたしはロルフと仕事するのをやめないよ。だけど、」
「もういいよ、ルーナ」
俺がまだ何かもやもやを抱えていると思ったのか、ルーナは一生懸命に説明しようとしてくれる。その気持ちが嬉しくて。でも、もう充分だ。
彼女の言葉よりも、ルーナのくりくりと大きな、いつも見開いている銀色の瞳をずっと見つめていたら、急に気がおかしくなりそうになる。ああ、わかった。
「ルーナはやっぱり月だよ」
「どういうこと?」
「月はひとを狂わすんだ。いつかも思った。ルーニーってあだ名は、本当に言い得て妙なのかもしれない。気を悪くしたらごめんな。だって、ルーナ。俺がこんなにも必死になるのは、そうさせられるのはきみが相手だからなんだ」
ポエティックな言い方が、少し気持ち悪かったかもしれない。仕方がない。だって、月が出ているから。古来、俺の故郷では月を題材にした詩(うた)や文学作品がたくさんある。月は、ひとを狂わすんだ。
「……コムギは」
何やら言いにくそうに、口を開いたルーナ。どうやら、珍しいことにその言葉を口にするかを悩んでいるみたいだ。けれども漸(ようや)く、彼女は紡ぎ出す。
「コムギはきっと、あたしを人間(ひと)にするよ。どこか遠い所に飛んでいかないための、枷になってて、だからあたしは安心してここに戻ってこられる」
「それは、良いことなのかな」
「ニュート先生も言ってたんだ。枷をつくりなさいって。そうでないと、あたしたちみたいな人種はどこまでもいってしまうから」
ルーナの場合は、寂しさを埋め合わすかのように、魔法生物に向いていたのかもしれない。しわしわ角のスノーカック、その存在を俺は、そして最近のルーナも疑問に思い始めているけれど、そういったものを信じていないと、学生時代の彼女は神経を保てなかったに違いない。
しわしわ角のスノーカックが世界の何処かにいるかもしれないように、彼女を受け入れてくれる人間はどこかにいるんだって。たぶん、その幻みたいな生き物は、ルーナにとってはロルフ・スキャマンダーだったに違いない。そして、俺は現実の生き物。ルーナを現実につなぎ止める、ただの男。
「あたしは、コムギと一緒に歩きたいよ。一歩ずつでいい、だってそれが生きるってことだもン」
俺にとって、今日は一日だけしかない。ルーナにとってもそうだ。その日々をどれだけ大切に、かみしめるようにして過ごして行けるのだろう。俺は馬鹿で鈍感だから、すぐに忘れちまう。だけど、できることなら、その日だけで命を散らすのではなくて、歩いていきたい。
「人間の一日って、蜉蝣みたいだな」
「一日一日を必死で生きて、明日へ繋いでるから?」
俺は微笑んだ。正しいとも合っているとも言わない。正しいかなんて、分からないんだ。だって俺らは、それが正しいかどうかも分からずに、浮遊し続けるだけだから。蜃気楼のように、陽炎のように、果敢ないものだから。ゆらり、揺らめいた感情が本当にそこにあるのかどうかなんて、どうでもいい。あるのはただの衝動と、たったいま手で繋がっている月のような彼女だけ。
「ルーナがいれば、迷わない気がするよ」
未だ、彼女を幸せにするとは言い切れないけど。でも、そんなことわざわざ口にする必要はないね。ルーナと俺は、ふたりでしあわせになるんだから。
ビックリしたような目を、まぶしそうにちょっとだけ細めて、ルーナは頷いた。
「コムギがいるから、」
もうその続きは聞かなかった。衝動的に口付けをして、ルーナはそれに慣れてしまったように受け入れる。それがすこし寂しいと思えど、変化を促したのは俺だから仕方がない。とろけそうな時間の中、俺はそっと目を瞑って思った。
蜉蝣は、歩かない。
歩くのは、毎日を踏みしめるのは、ヒトだけで充分だ。
The End.