閉め切った扉の向こう

1. 閉め切られた扉の向こう

 それは、ザカリアスがちょうど七歳のときのことだった。
 幼いときのことは人並みにしか覚えていない彼でも、鮮明に思い出すことの出来るだろうその記憶。
 うららかな春のことだったように思われる。スミス家自慢の庭。チェリーブロッサムの花が咲き誇り、うつくしく整えられた花壇が目を奪うような、そのガーデンの中心に木製のテーブルがちょこんと置かれている。
 客人であり、極親しい親戚付き合いをしているアルバート家の主人ーーザカリアスから見ると、母方の叔父にあたるその人は、腕の中にちいさな宝物を抱きかかえながら、穏やかに微笑んでいた。

「もう何ヶ月も経つのねぇ。あなたひとりでだいじょうぶなの?」

 ザカリアスの母親が、彼女の弟を心配そうに見やった。アルバート氏はほがらかに笑みをつくり、頷く。
 テーブルの上にあるあたたかな紅茶にぽろりと角砂糖を落とし、一口だけ口にしてから彼はそっと口を開いた。

「大変なのは否定しないが、これでも楽しいもんだよ。ミリィもいるしね。なにより、あれの置き土産なんだ、しあわせさ」

 アルバート家のしもべ妖精の名を聞いて、すこしだけ不安そうな顔をしたものの、ミセス・スミスは口には出さなかった。あれの置き土産ーーその単語で、彼がまだどれだけ彼女のことを想っているのかわかってしまったからだ。

「ほら、ザック。きみの従妹だよ。妹みたいなもんだ。きっと仲良くしてくれるよな」

 呼びかけられたザカリアスは、おっかなびっくりした様子でアルバート氏の腕の中の幼女を覗き込んだ。
 閉じられた瞳。すやすや眠っている様子の幼女。生後未だ数ヶ月といった感じで、ザカリアスの記憶の中にある赤ん坊とはおおよそイメージが違った。
 彼の中にある赤ん坊像とは、泣きわめき、四つん這いでそこら中を動き回って、とにかく苛立たせる源のようなものだったのだから。
 ところが、その赤子は黙ったまま平和を表すようにぐっすりと眠りこけている。穏やかなそれは、まるで今日の天気のようだった。

「すぐ骨折れそう……」
「ひとの子はそんなに柔じゃないさ。でも、そうだな……もしこの子が危険な目にあったら、ザック。お前が助けるんだ。だっておにいちゃんだからな?」
「ベックは?」
「ベッキーはそりゃあの子は女の子だ。別に女の子がしっかりしてるのは悪いことじゃないけど、私はお前にこの子を守って欲しいんだよ」

 アルバート氏がザカリアスにそう告げると、彼はどうしていいか分からなくなったかのように、母親を見上げた。母親もザカリアスのことを見つめて「そうね」というだけで何も言わない。
 ここにはいない姉のことを考えた。既にホグワーツに通っている姉ーーレベッカだったら二つ返事で引き受けるんだろう。負けたくない。でも、それでも彼女と同じ選択肢を快く選ぶのは、なんだか癪だと彼は思った。
 そもそも、この穏やかに眠ってはいるものの、小さくて頼り無さげな幼女を自分が守れるのか。こいつは守って欲しいと思うのか、ザカリアスは不安だった。



 ーー刹那。
 抱かれていた幼児の泣き声で、ザカリアスの思考は遮られた。甲高い、悲鳴のような泣き声。ザカリアスは驚いて仰け反った。「ウワっ」赤ん坊からすこし距離をとるようにしたら、母親とアルバート氏が息をあわせたかのように笑い声を漏らす。その間にも幼女は泣き止むことは無い。
 ザカリアスは大人に構っている余裕も持てずに、けれど今度は彼らに見せつけるように彼女の顔を覗き込んだ。ほとんど産毛も見えないくらいのつやつやな肌。勢い余って近づき過ぎて、再び驚く。今度は慎重に距離をとり、その頬をそっと人差し指でつついた。

 途端に刺すような悲鳴は収まり、代わりに何かを欲しがっているような甘えた声を出す。何を言っているか分からなかったけど、思いのほか気持ちがよくて何度も頬をつつくのをやめないでいたら、存外小さくてぷくぷくした手にペシンと叩かれた。思わず、手をその場で止める。嫌がってるのだと思って、やっぱり手を引っ込めようとした、その手を彼女はぎゅっと握った。

 赤ん坊の力。あまり強くないそれだったのに、ぎゅっとされると振りほどく気にはなれない。どうしていいかわからずに、ぎゅーっと握られたままにしていたら、何処からそんな力を出しているのかと驚くくらいに強く握りしめられた。ーーきゅっと引っ張られて、口元に持っていかれる。そのまま口にくわえて、歯の無い咥内で先端をちゅぅっと吸われた。

「うわっ! なにするんだよ!」

 振り払おうとしたけれど、傷つけてしまわないだろうかと思って躊躇した。
 その隙に、幼女はわらった。あまえたな声で、わらった。
 きゅっと細まった瞳、なんだかじっと柔らかな瞳で見つめられているみたいで、ザカリアスは今まで抱いたことの無い気持ちが沸き起こるのを感じる。
 意識の極深い所でざわざわと何かが騒ぐ。きゅうっとみぞおちの辺りが引き締まって、何かを訴えた。

「気が向いたらね」

 それだけを絞り出して、ようやくアルバート氏を見た。
 彼はほっと嬉しそうに目元に皺を寄せたあと、すべてを承知したように頷いた。
 ザカリアスは、それを見てもう一度呟いた。

「気が向いたら、守ってあげないこともないよ」

 それは誰かに向けての物ではなく、虚空に溶けていった。
 きゃっきゃと、幼女の高い声が騒ぎ、良く手入れされた庭に吹いた風がそれを何処かへと運んだ。
















 * * *












 あのときの決意をそれ以降、ザカリアスが口にしたことは一度も無い。
 不用意なことばかり口をついて出ると自覚している彼は、逆に、たいせつなことはなにも明確化したくないという強い意志を持っていた。

 ホグワーツに入学してもう既に四年が経過した。
 休暇の始まる日、キングズクロス駅まで両親が来られないという連絡は、学年末が終了したあたりにはもうフクロウ便で届いていたので、お迎えは期待していない。
 幸い、現在の住まいはロンドンからそう利便性も悪くない。いちどダイアゴン横町まで行かなきゃいけないだろうけど、すぐに帰れるだろう。

「まあ、アンタ一人だったら心配かもだけど、アタシもいるしってことでしょうね。二人ともほんと忙しそうなんだから。仕事があるってのはいいことかもしれないけどさ」

 ザカリアスの姉ーーレベッカ・スミスはその勝ち気な瞳を光らせて、挑発するようにザカリアスを見た。

「ベックだって迷子になったくせに良く言うよ」
「あら、アタシは迷子になったおかげでもう二度と迷わないわよ」

 全く答えた様子も無く、しれっと言い放つ。両親とともに駅を発つ友人達に手を振ることも忘れない。
 ザカリアスはそれを見て、相変わらず顔が広いと密かに感心したけれど、そんな内心をちらりとも見せずにふんっ、と顔を背けた。その先に見えた、見知った顔。

(あっ……)


 随分と成長した彼女は、既にあのときのザカリアスと同年代にまでなった。パッチワークのキルトで作られたワンピースをひらひらとさせながら駆けてくる。その後ろを幾分歳をとった彼女の父親が、呆れたように笑いながらゆっくりと歩いていた。
 満面の笑みを浮かべた少女は、転けそうになりながらもホグワーツ帰りの二人に飛び込んだ。

「おかえり、ベッキー!!」

 レベッカに抱きとめられた少女は、それは嬉しそうにぎゅっとレベッカを抱きしめ返した。
 口数は少ないものの、何故ここにいるか、どれだけ会いたかったかを彼女に告げる。
 曰く、アルバート親子はこの日予定が無く、一刻も早くレベッカに会いたかったから、彼女が駄々をこねたのだと。ごめんなさい、としゅんとしている少女の頭をくしゃくしゃに撫でながら、レベッカは弟の方を見やった。勝ち誇った笑み。つり上がった唇に、イラッとした。それが声の調子にも滲み出ていたに違いない。

「シェリー」

 びくっと肩を振るわせただけで、彼女はこちらを向こうとしない。
 焦れて、彼はもっと強い調子で彼女のフルネームを呼ぶ。

「ミシェル・アルバート」

 ようやくこちらを向いた。と、満足した気分になるのはつかの間の話。少女は、怯えた目で彼を見ていた。
 思わず身体を振るわせる。ーー自分もおかえりと言ってもらいたかっただけなのに。淡い希望は潰えてしまい、用意していた台詞は行き場を失う。

「ーーなんでもない」

 それが余計に怖がらせてしまったようで、ミシェルはレベッカに抱きつく力を強くした。
 ますます気に入らない。舌打ちをし、二人を置いてザカリアスは歩き出した。