閉め切った扉の向こう

7. 閉め切った扉の向こう

 ほとんど恋情を告白したも同然だと、あの頃を振り返ってミシェルは思う。本当に恥ずかしくて、どうしようもなくて、ザカリアスに会いたくない日々であったが、しかしザカリアスは彼女に会いにくることはなかった。逃げ出した先、スーザンに見つかって嗜められ、姿あらわしで家まで送ってもらった時には考えもしなかったことだ。この二人の関係、ザカリアスが会いに行く所から始めるのだ。ーー今まで、ミシェルが気付きもしなかったことだ。
 どんな顔して会いに行けば良いのだろう。だって、会いたくないって思われていたら? ザカリアスの反応はあからさまで、それもミシェルを躊躇わせる原因の一つだ。あれだけだいじにしてくれていたザカリアス、なのに恋情ひとつで会いにきてくれなくなるなんて。ずるい、とミシェルは思う。自分の怠慢を棚に上げ、ずるいと。何度でも。

(でも、こんな気持ちしながら、いつも来てくれてたんだ……)

 彼女こそ、ザカリアスのことを苦手だと思っていた。ずっとずっと、ベッキーに懐く反面、彼を怖がっていた。何を考えているかが分からなかった。出る言葉は全てキツいもので父子家庭、父親に甘やかされて育っていた彼女には少々刺激が強過ぎたのだ。
 それなのに、彼はミシェルに空を飛ぶ楽しさを教えてくれた。父親の方の遺伝か、ミシェル自身は上手く箒を操れないけれど、クィディッチが嫌いにならないで済んだのは、きっと彼のおかげ。守ってもらっただけじゃない、いろんなものを彼からは貰っている。

「今年こそ、大好きなお兄さんにシェリーから会いに行くんだよね。わかってる?」
「でも、だって、ザックくん、会いたくないって思ってたらどうしよう」
「だから、シェリーはちょっとうじうじしすぎなんだって。会いたくないなんて言われたら、そんときは私がぎゅーってして慰めてあげるって」

 それでも「でも……」とはっきりしない様子のミシェルに、彼女の友人は顔をしかめた。彼女が曖昧な態度で全てを誤摩化す性質なのは今に始まったことではない。だが、それでも苛つくことが無い訳ではない。
 今年初めてのことならば仕方が無い、で済ませるだろう。クリスマス休暇の時には行けなかったんだ。次もあるし、気長に頑張ろうよ、と。けれど、ミシェルは既に十五歳になっていた。あのパーティから、三年は経過している。
 ガタンゴトン、ロンドンに向かうホグワーツ特急。これがキングズクロス駅についたら、ミシェルはとうとう六年生になるのを待つ身となるのだ。淡い恋心を自覚した、あの三年前からは状況も変わってくる。成長もする。きっと彼も変わっていることだろう。こんなに長いこと彼と会わないでいたことなんて無かった。会わずにさえいたら、甘酸っぱい恥ずかしさなんて消え去ると期待もしていた。そんなことはなかった。胸を締め付けるような、苦しい気持ちが膨れ上がっていくだけである。

「私、知ってるんだよ。レイブンクローのハインツに告白されたんでしょ」

 ぎくっと肩を震わせるミシェル。しかし、友人は言葉を止めることは無い。「ハインツって結構、人気あるんだよなあ。そこそこ顔良いし、なによりクィディッチの選手でしょ、キーパー」元々、同学年のレイブンクロー生である彼と知り合ったのは、クィディッチの関係でもあった。直にキャプテンになるだろうとも噂される身、人気がない訳ではなかったし、噂に疎いミシェルもさすがにそれくらいは把握していた。だから、友人にジトっと見られると、弱る。「だって私は、その、好きじゃなかったし」二人しかいないコンパートメント内に、ぽつりと落とされた小声。そして続くため息。

「いとこのお兄さんが忘れられないんだって、断ったって、聞いたよ?」
「だ、誰から」
「ハインツ。あんな未練ったらしい男を振ったのは、まあ正解だと思うけどね」

 別にこの友人、ゴシップが特に好きだという訳ではない。むしろ根拠の無い噂話はきらいだった。ざっくりと物を言う所は、ハッフルパフらしからぬ、と言えなくもなかったが、ミシェルはそれがザカリアスに似てて好ましいとさえ思っている。それに、キツいことを言うことはあるが、彼女は決してひとを傷つけようとはしない。
 ただ、正直に思ったことをいうからこそ、キツい一言になるのだということも否定出来ない。現に、ミシェルは言うことに困って、逃げるように窓の外に目をやった。木々が揺れている。随分と景色は都会に近付いていて、もうすぐロンドンに着くだろうことがわかった。広げているお菓子をつまむと口に入れる。
 もぐもぐと食べながら、既製品の風味が口の中に広まって、それがなんとなくイヤになった。(ザックくんの作ったお菓子、食べたいな)そんなの、ずっと思っていることだ。だけれど、唐突に、とてつもなく彼の料理を食べたくなった。もっと言うなら、一緒に作りたいとさえ思った。会いたい。(ザックくんに、会いたい)

「……帰ったら、ザックくんのとこ、行ってみるね」
「そうそう、その意気!」
「会ってもらえなかったり、その、彼女さん出来てたりしたら、慰めてね……?」
「もちろん。連絡待ってるからね」

 列車の動きがゆっくりと停止する。キングズクロスに着いたことと、宣言してしまったこと。両方を認識すると、なんだか急に緊張してきて、ミシェルは強張った顔つきのまま、ちいさく息を吐き出した。












 ***













 ミシェルがザカリアスの元へ向かったのはその日の夜だった。ホグワーツ特急から帰った晩、レベッカが彼の元に向かう予定だったのが、急用が出来たというのだ。いつかのブティックの彼に会いに行くのだという。ミシェルは、いつからかレベッカが彼と恋仲だということを知っていた。
 ダイアゴン横町の片隅に構えるあの店舗が、スミス姉弟の料理店の本店であることには変わりない。ただし、レベッカの方はといえば、常にあそこにいるのではなく、各地で期間限定の支店を構え、着々と名前を広げていた。
 身の軽いレベッカは時々ホグズミードにまでやってきて、ザカリアスの様子を伝える。帰省前の最後のホグズミード休暇でも顔を出した。友人にはああ言ったが、だからザカリアスに恋人が出来ていないことなんて、知っている。レベッカは、誰から聞いたのか、それとも見ていてわかってしまうのか、私の気持ちなんてお見通し。彼のことを忘れたがっているのだということまで、理解しているに違いない。なのに、彼の作った商品を手渡しては、にっこりと微笑む。
 今日、ザカリアスのところへ行く約束をしておいて、帰ってきたばかりのミシェルに押し付けたのも、もしかしたらわざとなのかもしれない。ミシェルはそう思っていた。

 今日は店を開けていないはずなのに、店の明かりはついていた。レベッカが来るということで、付けたままなのかもしれない。それとも、ここ最近はずっとそうなのか。一年ほど前にザカリアスは店を拡張し、住居スペースを儲けて以来、彼はここで寝泊まりをしていた。
 どうしていいか悩んだあげく、ミシェルは申し訳程度にノッカーを鳴らし、そろりと店のドアノブを捻った。

「ベック、遅いよ。遅れるなら、フクロウ飛ばしてそう言ってくれないとこっちにも予定がーーッ、ミシェル? ……なん、で」
「……ザックくん、ごめんなさい」

 久しぶりの対面だというのに、ミシェルはそれしか言うことが出来なかった。テーブルが並ぶ店内、そのカウンター席に座って何やら資料を捲っているザカリアスが眩しかった。スポットライトのせいだと思うことにして、それで何かを言おうかと思ったけれど、言えなかった。自分の身に染み込んだ、意味の無い謝罪文句が口から零れる。その瞬間、ザカリアスの表情が変わった。驚きから、無表情へ。

「だからさ、ミシェル。なんでそうやって謝るんだよ。何に対して謝ってるのさ」
「わかんない、でも、ごめんなさいごめんなさい」

 それしか言えなかった。何も考えられず、みっともない自分がすごく惨めに思えてくる。ぐっと込み上げて来る熱いものを必死で抑えて、それでも瞳の淵に溜まるものは堪え切れない。きらきらと、水面張力でようやく留まっている水玉を通してザカリアスを見た。(呆れられてる、かな)また、こうやって、泣いてばかりの女の子だって。子どもだって。ミシェルは、だから泣きたくなかったのだ。
 ザカリアスはもう無表情ではなかった。涙で滲んで、ミシェルには良く見えていなかったけれど、どうして良いかわからない、困った表情である。ぽろり、零れるように、彼は問いかける。

「ミシェル。きみ、いくつになった?」
「えっと、十五歳、だよ」

 下手をしたら嗚咽が零れてしまいそう。耳の奥までキン、と痛くなるのを堪えて、ミシェルは短くそう言った。ザカリアスは迷うように、視線を宙に彷徨わせる。いつもは無意識だけれど、今回ばかりは意識して強めの口調をつくる。「あのさ、ミシェル、帰りなよ」「えっ」「ベックに遊ばれてんだよ。ベックは来れないんだろ。いいよ、分かったから帰れよ」どうしてそんなことを言われるのか、彼女には理解が出来なかった。悔しかった。彼が、言葉少ななのはいつもだったけれど、会わないうちに、また彼との距離が遠くなってしまったように思った。

(違う、私があんなことを言ったからだ)

 あんなに熱を込めて、恥ずかしいと思って、それを言ってしまったことはない。でも、後悔はしていない。ジャスティンはすきだけれど、ジャスティンとザカリアスは違うのだと。もっともっと違う存在なんだって、あの時、知って欲しかったのだから。

「……私、帰らないよ」
「帰りなよ」
「だって、ザックくんに会いにきたんだもの。だって、ザックくん、会いにきてくれないんだもの」

 帰らないことを主張するために、ミシェルは扉の鍵を閉めた。無いとは承知していたが、間違ってお客さんが入ってきては困るという気持ちもあった。ーーシン、と静まり返る室内。ミシェルはザカリアスを見つめていて、ザカリアスもミシェルを見つめていた。
 いつのまに、こんなに大きくなったのだろう。まだほんの幼いこどもであったはずのミシェルは立派に、思春期の娘になっていた。少女から女性に差し掛かる、その丁度境目にいる彼女はその年代特有の危うい空気を醸し出している。胸もほんのりと膨らんでいることに気付き、彼は慌ててそこから目をそらす。ばっちり、と再び彼女のまっすぐな視線と絡み合った。

「僕といると恥ずかしいんじゃなかったっけ」

 それがあの時、思わず口走った言葉だと、ミシェルは思い当たった。カアッと顔を真っ赤にする。「ばか! そんなこと言わなくってもいいじゃん」恥ずかしがって逃げればいいのに、そう思って言い放った言葉だったのに、ミシェルは照れながらも少しずつ店内を横断してきた。足音は、やがてザカリアスのすぐ隣で止まる。
 ザカリアスは、カウンター備え付けの高めの椅子に腰掛けたまま、肘をついてミシェルを見つめた。しかし、頬を真っ赤にしてじっと見上げて来る彼女に、お手上げ状態だった。脳を直接揺さぶられるようにして、理性が揺らぐ。

(この、馬鹿……)

 思わずそう思ってしまうのも仕方がない。だけれど、ミシェルはそんなこと一つも気付かないで、ザカリアスのエプロンの裾を握った。ザカリアスは、ハッと息を呑む。彼女の手を、振りほどくようにして払いのけ、転げ落ちそうになりながらも立ち上がった。瞬間、絶望したような表情をした彼女のことなんて、構うことはできない。

「恥ずかしく、ないよ」

 沈黙が支配するその空間を壊したのは、ミシェルの方だった。ザカリアスはもう一度、息を呑んだ。何かを言いたそうにして、言葉を探しているミシェルだけれど、言わせては行けない気がして、ザカリアスは顔の位置を合わせるためにすっと腰を落とした。彼女の肩に手を置く。ぎゅっと握るように力を込めれば、きょとんと疑問符を浮かべる。

「……まいったな」

 口調は彼にしてはとても柔らかかった。ゆっくりと心の奥から吐き出すようにして、彼はその言葉を放った。強張ったままの表情、それがふと緩んで、ふわりと笑う。そんなの、見たことが無くて、ミシェルは思わず目を瞬かせた。もう一度見たいと、そう思っていられたのは一瞬だった。

「本当は成人するまで待つつもりだったんだ。どうせ僕の気持ちは変えたくても変えられないから、きみを逃がしてあげられるように」
「なに……」
「無防備に、ノコノコやってきた、平和ボケをした、きみが悪い」

 それだけを言うと、彼は予告も無く彼女を抱き寄せた。クィディッチはしなくなった分の筋肉は落ちたとはいえ、衰えていない、男のひとの腕。前に会ったときよりも、ずっとずっと大人びたその表情。何かを堪えるようにして伏せられていた瞳が、すぐ隣にあるなんて。ミシェルは横を向くことも出来なかった。ただ、為されるが侭に、抱きしめられて、棒のように突っ立っているだけ。

「僕は、きみのいない人生なんて、七歳のあの時から考えられないんだ」
「私だって、ザックくんのいない毎日なんて、味気なくて」
「きみは甘いよ、ミシェル。僕は、きみのパパのように優しくない」

 ザカリアスが自嘲する。ミシェルは、彼がどこかしら引け目を抱いていることを敏感に感じ取った。何を言えばいいのか、わからなかった。けれど、彼を無くしたくないことは、彼女だって同じだった。人生とか、そんな大きなことは言えない。でも、ザックくんのお料理を食べたいし、できるなら一緒に作りたい。彼と、一緒にいたいのだ。この三年、消そうと思って、逆に油を注いでしまった気持ちには逆らえない。

 ザカリアスは、既に彼女の心の内側にいるのだから。



(いつの間に、彼はこんなにも私の中に入り込んでいたのだろう)

 それこそ、生まれてしばらく、初めて顔を会わせた時からかもしれない。ぎゅっと握ったその指から、安心が伝わってきたことなんて、彼女は覚えていないけれど。
 苦手だったはずの彼は、いつも怒ったような顔できついことばっかり言っていた彼は今、困ったような、弱ったような顔でいる。抱きしめていて表情が見られないのは、彼にとって幸いだったに違いない。

「本当は妹のようなつもりだったのに。ねぇ、ミシェル、」
「……」

 ミシェルは答えない。
 自分だって妹のようなつもりだったのに、一体いつからだろう。妹では満足出来なくなったのは。明確に自覚したのはあのパーティの夜。けれど、本当はもっと前からそうだったのかもしれない。レベッカのことは姉のように思えても、ザカリアスのことを兄のように思ったことは、一度も無い。

「すきだよ」

 掠れた声で放たれたその一言は、波紋のようにミシェルの心の中に広がっていった。治まったはずの涙が、再びじわりと込み上げてくる。思考回路がしごとを放棄する代わりに心臓がどくんどくんと活性化して、落ち着けない。

「私も、」
「……」
「私もすきだよ、ザックくん」

 言葉は無かった。
 ただ、ザカリアスは抱きしめる腕にぎゅっと力を込めることで、返事をしたのだった。






 扉の向こう側なんて、二人には関係ない