あのね、これは秘密のおはなしよ?
このことは、もう既に事情を知っているヤオちゃん以外に話すつもりはないのだけれど私、
七篠由芽子がこの歳までいつまでも独身(フリー)でいるのにはそれなりの理由がある。まあ、間もなく三十代に差し掛かろうという人間に、それがどのような事情であれ、詳しい内容を知らなくても何にもなければ嘘だと思わない?
その内容は皆さんが期待している私と轟さんのお話には関係のないことだし、お話したところで何にも面白いことはないから、何かあったんだなってそれぞれ皆さんで想像しといてしてほしいの。そのくらい出来るよね?
*
私が彼と会うのは、いつも日の落ちる時間帯だな。待ち合わせした場所で合流後、自然と隣を歩く轟さん。隠れる直前に最後に一番強く輝きを増す太陽の光が、彼に掛かって最高に眩しい。物理というよりも、ね、分かるでしょう? いつ見てもきらきらした人だなあ、と私が思っているのを知っているのか知らないのか、こちらを見ることもなくすたすたと歩いている。隠しきれないイケメンオーラ、私服のセンスも悪くない。まあ、きっと轟さんなら、ユニクロでもしまむらでも格好良く着こなすんだろうな、なぁんて。
横を歩いている私を気にする風でもないのに歩くスピードが同じなのは、きっと気を使ってくれているからだ。テレビで見て想像していたよりも、もっとずっと身長の高い轟さんが普段通りに歩いたら、きっと私は小走りにならないとついていけないもの。
「先に聞いておけばよかったが、食べられないものはあったか?」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか」
よかった、と淡く微笑んだその表情に一瞬くらりと来た。イケメンは、笑顔を、出し惜しみすべきです! 常日頃から思っていたそれを心の中で叫びつつも、彼から目が離せない。本能とは素直なものです。整い過ぎた顔の左目のあたりに酷い火傷痕があるのはあまりにも有名だが、実際目にすると想像よりもはるかに痛々しいと、私じゃなくても思うだろう。でも、何となくだけれどそれのおかげで、この人は漸(ようや)く人間染みているなあ、と彼が知れば不名誉に思いそうなことを自分勝手に思う。私はこの人のフォロワーではないから、彼の過去も、どんなヒーロー活動をしてきたのかも、全国ネットの放送でしか知らないけれど、医療が個性含めてそれなりに発達してきている今の時代に、この傷をこんなに酷いままにしてあるというのは、私なんかが想像もできないくらいのことがあったんだってことくらいしか分からない。なのに彼を人形のような美貌なんかじゃなく、人間たらしめているこの傷跡に好感を持ってしまうのだから、私はやはり性格(タチ)が悪い。余計なことを考えてしまわないように意識を逸らそうと、心の内を隠すように尋ねた。
「轟さんは、私の何処をそんなに気にしてくれたんですか?」
私の不意な質問に轟さんはなんて答えればよいのか、少し悩んだようだった。答えないまま、返答を考えている。私はそれに何も言わず、黙って待つことにする。
轟さんが予約をしてくれたレストランは駅から少し歩く。その旨はあらかじめSNSアプリで聞いてくれていたし、了承を伝えておいたので減点対象にならない。普通は駅近のお店が一番良いんだけれど、それは轟さんも分かった上のことだろう。きっと彼は何かに囲まれた場所で形式張った話をするのではなく、こうやって格式張らない(少しラフな)状況で私と場を共有したかったのだろうと思う。正直言って、私もそのほうが良かった。轟さんに対してはたくさんの猫ちゃんを使って、表面上の戦いばかり繰り返してきたけれど、それにはもう、うんざりだった。
悩んでいた様子の轟さんは、それでも答えが出たのか、歩みを止めずにちらり、とこちらを見る。刻一刻と沈んでいく太陽の代わりに、既に上りつつあった月が主張を始めていた。街灯の明かりが灯り始め、夕食の頃合いを見計らって街に雰囲気(ムード)が増していくのを感じる。顔に影のかかる轟さんは美人特有の妙な凄みがあった。何か思うところがあったのか、彼は立ち止まる。私もつられて歩みを止めた。道端で立ち竦む私達が妙な注目を集めるほどは周囲に人がおらず、今この世界には私と彼しかいないような錯覚に陥って、どきどきした。――そうだ、恋とはこういうものだ。初対面からの目まぐるしい展開、目の前の大して良く知らない美しい男。あとは少しの想像力をスパイスに調理すれば、胸なんてすぐに高鳴る。
轟さんは私の右手を取った。最初に会った日、私と彼とで口論した結果、怪我をしたほうの手だ。白魚のように、とは言わないまでも幼少期からお金を掛けて手入れをされてきた分、普通の女性よりかは美しい状態を保てていると言えよう。「やわらけぇ」思わずとでもいうように、私に聞かせる風でもなく轟さんは言った。私はどういう反応を取れば良いのかも分からず「ありがとう」と礼を言うにとどめる。
それで我に返った轟さんは、はっとした顔をして私に向き直った。私の問いに答える決心がついたようで口を開く。
「必死だな、と思ったんだ」
「結婚に対してですか」
聞きようによっては大変失礼なことを言われていると思ったけれど、そろそろ私もこの人の言葉足らずさも、他の人に比べて少しずれた反応をすることも分かってきたので、すぐに怒りを表面に出すのはやめた。自分を棚に上げていうが、この人もヤオちゃんもお金を持っている家に生まれた子どもというのは、どこかそういうところがある。
「何に対しても。初めて思ったのはうちの事務所の前で見かけた時で、それからこの間も。何に対しても、目の前のことに一生懸命になれるっていうのは、俺は好きだ」
この間思ったことだけれど、この人には白か黒かのどちらかしかないのかもしれない。何も話さないのか、何もかもを曝け出すのか、この二つしか選べないのだ。だからこの間のパーティでは完膚なきまでに拒絶をされたのか。それでもこの人の周囲には女性は群がり続けていたけれど。良い男を見つけるにはいくつかポイントがあって、そのポイントを知らない女はあの場にはいなかったと思う。服装や靴を見るのは常套手段だけれど、あの仮面舞踏会では使えない。髪もウィッグによって隠されていた。残されたもので分かるのは、ピンと伸びた背筋に自信に満ちた立ち振る舞い、厳しくも甘やかされた良家の子女特有の口調に、それから匂いだ。香水を付けたり特別な香を炊いたりしていたわけではないだろうけれど、この人からは精悍な匂いがする。あまったるいどこの女がつけていたのか分からないようなそれではなくて、きっとこの人自身が発するものだ。発情期の猫をまとめておびき寄せるようなフェロモン染みた匂いに誘われた女も多かっただろう。これも彼の個性の一つなのかもしれないと疑うくらいに、濃厚な気配だったのをよく覚えている。
今日はあの時とは違ってさっぱりとした香水を意図してその身に纏っているのか、隣にいると薄っすらと香りを感じる。食事を邪魔するほどのものではなく、センスが良いなと場違いにも思った。洗練されたスマートさに騙され、数々の地雷を踏まえたとしても先程からの実直さはポイントが高いのではないかと思わず考えてしまう。早まってはこの先何十年も、つらい思いをするのは私なのに。
彼から隠すことなく告げられた言葉に私が何も返せないでいると、轟さんは握ったままの手にそっと力を込めた。最初の時のように力任せに握られることはもう無い。壊さないように、傷付けないようにしてくれているのが分かって、心臓の音が更にうるさい。顔がどれだけきれいでも、ヒーロー活動の中でたくさんの人たちを救い上げてきたであろう手は、私の些細な傷なんか気にならないほど痛そうな古傷も山ほどあったし、想像していたよりもごつごつしている。筋張った、男の人の手だ。それなのに(美味しそうだな)指先を見つめるうちに自分の中で沸き上がってきた、はしたない欲求に私の顔は赤くなったと見なくても分かる。私は誤魔化すようにさらに質問を重ねる。
「轟さんって、結婚したいんですか?」
「正直言うと、どっちでも良いと思ってた」
「正直ですね」
でも、実は私もそうなんです。微笑んで見せると、少し安心したように頷いた。私も結婚に本当はこだわっていないの。自分で自分を世話するだけの稼ぎもあるし、独身者が減ってさみしいのは確かだけれど、一人遊びは嫌いじゃない。今までだって友人たちはみんな忙しくてあまり構ってくれなかったし、新しい友人を作るのも苦手じゃない。それに、子どもも強くは望んでいないのよね。結婚するということは、私にとっては、さほど大きなメリットにはなり得ない。だけど――
「だけど、何にでも必死なあんたを、俺が一番大事にしてみたいと思った。だから今日、来たんだ」
何を言うにもまっすぐで、隠すことなく言う轟さんだが、さすがに羞恥心というものは持ち合わせていたらしく、彼はふいと顔を背けてそのまま歩き出した。顔が熱い。こういうこと言うの、出し惜しみしたほうが良いと思うの。口説かれてるような台詞。あれ、もしかして、口説かれてたんだっけ。すたすたと歩き続ける轟さんを慌てて追って、私は横に並んだ。さっきから体中に熱が巡るのは、彼の左側にいるからじゃないと思う。
轟さんがたまに来るというこのレストランは市街地の中に、ひょっこりと現れた。一見、北欧風の可愛らしい住宅に見えないことないというか、誰かに連れてきてもらわなければなかなか入りづらい感じ。こんなに可愛らしいお店と轟さんがあまり結びつかないけれど、きっと女性と来たんだろう。と、勝手な想像を働かせた。カウンター席とテーブル席があるが、一番奥まったところにある、reservedと書かれたプレートのあるテーブル席へ案内される。
「お待ちしていました、轟様」
真っ白で糊のきいたシャツ、真っ黒いスラックスに腰巻の黒いエプロン。恭しく礼をした後、私の椅子を引いてくれた男性店員は轟さんと顔見知りの様で、たまにどころかかなりの頻度でこの店に通っているのかもしれないと思った。店員さんは良く教育されているようで、余計なことはなにひとつ言わずにこちらを向いて私に営業スマイルに見えない柔らかな笑みをにこりと深めたあと、「メニューはあらかじめ承っていた通りでよろしいですか?」「ああ、頼む」と轟さんと二人でやり取りをしていた。
コースかなにか頼んでくれてたのかなと思いながらも、でもなんていうか、それはマイナス一点なの、轟さん分かるかな。スマートさは素敵なところだけれど、婚活において独断専行は結婚後の生活も全て支配されるのでは? という想像を掻き立てるのよ。それでも、食前酒で喉を潤しながら、どんなものが出てくるのかしらと楽しみにしてしまう私、何度も言うけどちょろいのだ。
会話を通じて心の距離が縮まったからか、私が築いていた城壁のようなものは店に入るころにはすっかりと無くなってしまっていた。警戒心も緩んだうえでの食事は思ったよりもずっとたのしく、何より美味しいお料理の数々に私はご機嫌だった。どういうメニューだったのかは今度、連れてきてあげるから楽しみにしていなさいな。会話は当り障りなく、というところか。内容は気になるだろうけど、教えてあげる気分にならないのよ。勘弁してね。
約束していたお食事は済んだので、もうそのまま解散するのかと思いきや、轟さんは未だ時間はあるのかと聞いてきた。今日は金曜日。明日は特に営業巡り(アポ)もないし、会社で急ぎの仕事もないからオフだと告げると、少し寄っていかないかと見せられたのはチケット二枚。各地域の水族館に巡回中のイベントチケットだ。来月末まで近隣に来ていると確かに噂だったけれど、轟さんからその話が出るなんて意外過ぎて驚いた。
「嫌か?」
「いえ、ちょっとびっくりしただけです」
「姉が、デートなら余ってるから持ってけって。ここから近いんだそうだ」
視線を少しそらして、気まずげに言う轟さんはかわいいなと思った。食事の際に一緒に頂いた葡萄酒で気分がふわふわしていて、いつも以上に理性がゆるゆるであることが自分でも分かりきっていたけれど、もうどうにでもなってしまえという心持ちだった。「お姉さん、親切ね」ふふっと笑うと、轟さんこそ、少し驚いたみたいに細めの目を少し見開いた。
「もちろん! 一緒に行きましょ。ね、轟さん」
「あ、ああ……」
「私、一人でお出かけするのは好きなんだけど、誰かとお出かけするのも好きなのよ」
美味しいご飯に、素敵なデート、お隣にいるのはとびっきりのイケメン。ほろ酔い気分の私をしあわせにさせる要素ばっかりで、嬉しくなってきた。よたよたとしながら歩いている私を少し危なっかし気に見ていた私の右側に立つ轟さんの左腕をえいっと掴む。「ちょっと不安定だから、ゆるしてね」そう言えば、男の人はみんな大抵許してくれる。轟さんはその『大抵』があまり通じない人だったから、振り払われたらどうしようかな。ほんの少しだけ不安になった。轟さんは少し居心地悪そうに身体をこわばらせるが、嫌がらずに私を彼の左側で許容してくれた。