貴公子は迷える少女を救わない
『僕がずぅっと君を背負ってあげるよ、死ぬまでね』
彼はきっと、私が死ぬほど求めているものを知っていて、それをどうしたって手に入れられないのも知っている。戯れの言葉の中に、毒のように混ぜ込んで、蝕んで、心の中で泣きながら私が足掻いているのを嘲笑しているのだ。
それなのに、彼を嫌えない、嫌えないのは彼も私と同じだからだ。
唯一無二のナントカってやつを追い求めてるふたりは、一緒にいたってひとりぽっちなんです。
*
水族館は得てして暗いものだけれど、夜中に近づいているこんな時間帯は初めてで、少し緊張した。こんなロマンチックが止まらないデート内容を、婚活パーティの最初に言い出せばよかったのにと思ったが、これはお姉さまの入れ知恵だったんだっけ。水族館につく頃には少し冷えた頭で、掴んだままの彼の左腕をどうしようと少し悩んだ。外はすっかり冷え切っていたし、水族館なのだから館内は涼しげなのに、彼の左側に張り付いていると熱過ぎるくらいだ。
コミュニケーションはうまくとれなくって、マザコンの気があって、家庭環境はかなりややこしいことになってるともっぱらの噂。お姉さまとの仲は良好だけれど、この上シスコンだったら嫌だなあと思うし、家族が一番の男性と結婚して、しかも同居生活ってことになったら、それこそ最悪だ。私は我がままなの。自分でもわかってる。結婚相手(パートナー)とは、どんなにビジネスライクな関係だっていいけれど、私のことを一番にしてくれないと許せない。婚活パーティに参加する連中なんて、得てして相手を一番にしないの、わかってるのに。自分が一番大事な連中が、自分を一番大事にしてくれる相手を探すためのイベントだから。もうあの開催自体がマッチポンプに近い。
「思ったより、ちゃんとしてるんだな」
興味深そうにきょろきょろと周囲を見回しながら、轟さんが声を掛けてきたので、私は思考を現実へ戻す。半ば自棄になって左腕は離さないことにしようと決めたけれど、もはや不安定さのなくなった私が彼にしがみつく理由もなく、そっと手を結び直すことにする。薄暗さから感じる少々の寂しさから、この人肌の温かさを逃したくなかった私の中での折衷案だったが、接する面積が減ったことで、やはり少し涼しくなってそれが少し物足りない。お酒を飲んだ後は熱くなりすぎるから冷たさを求めるというのに、私はどうしたのだろう。考えない。考えては何か良くない結論に陥る気がする。
私が自分自身を支える態勢に整えたので、轟さんは何か言いたげに繋がれている手を見たが「思っていたより、ずっときれい。水族館はきっと、昼間よりも夜が似合うのよ」私がうっとりと周囲を見回しながら言ったので「そうだな」と同意するに留めたようだ。
「海は深く、暗いから。アクアリウムもそうであるべきなんだわ」
イベントの巡回期間の半ばだったからか金曜の夜にも関わらず、思ったよりも館内には人が少なかった。水族館の内部は通常の配置と違い、ライトアップやレイアウトに凝っている。噂によるとこれは魚たちへ対する虐待で、ストレス由来の致死率も上がるというのだけれど、それがまた奇妙なうつくしさに繋がるのだから怖い。何が怖いって、きれいって思ってしまうことだよね。強者によって閉じ込められ、命を燃やしている姿の、なんて美しいことか。目の前でひらひら尾びれを揺らしながら舞う様に泳いでいる魚たちは、きっと年季のない妓女のようなものなのだろう。私にとっての結婚も、それに近いものなのだと思い当たった。
(きっと私自身は商品で、選ぶ立場だというのは大間違いなのよ、寧人くん)
昼間に会っていた友人に対して、八つ当たりのような感情を覚えたせいか手に力が籠る。轟さんは気遣う様に「酒を飲み過ぎたか?」と聞く。私は首を振る。轟さんの見当違いの心配に腹立たしく思う前におかしくなった。お酒で変になっているんじゃないの、私はいま、あなたの目の前であなたとは違う男のことを考えていたのよ。言ってしまいたいけれど、きっと、言ったところで轟さんは察することはできないのだろう。まさか、強引に私のことを連れ去って、奪ってほしいと私が思っているなんて。
妙な雰囲気のまま私達が言葉少なに館内を歩いていると、今までのこぢんまりとした小部屋から少しひらけた場所に出た。広い部屋、入り口付近に人が集まっているせいか、出口に近いここには人が少ない。途中で販売していたこのアクアリウム限定の青いオリジナルカクテルを持ったカップルが二、三組いるだけ。小さな声で話せば他の人たちに声なんて届かないだろう。現実離れした赤や黄色や青色のライトが時間と共に移り変わりながら、部屋中を照らす。
「私は、お姫様になりたかったのよ」
幻想的な光景に酔って、浮かされたように私は言う。轟さんは何も言わない。するり、私が緩めれば簡単に繋いでいた手は外れた。今、私はこの世界で、たったひとりでいるような気持ちになって、その場でくるりと回転した。体中にアルコールがまわっている筈なのに、それでも片足軸ではふらつかない。酔った振りをしながらも、その実お酒にはそれほど酔っていないのだろう。
「女の子なら、誰もが一度は憧れるの。私だけの、白馬に乗った王子様。規則ばっかりうるさくて、雁字搦めのこの家から早く連れ出して。それか或いは、せめて私が男であれば、」
何を言っているのだろう。こんなことを言ったって、轟さんは困るばかりでしょう。私、本当に、こんなこと思っていないのに。私は私の、今の人生で満足しているし、一人でいるのも好きだし、それなりに充実している。好きな時に好きなことをやって、悠々自適に生きられれば――そう思って顔を上げた時、水槽の中に閉じ込められた魚と目が合った気がする。この広い部屋は水族館の元々の配置を活かした構造をしているらしく、天井の代わりにガラス張りになっていて、上部にも魚が泳いでいる。目が合ったように思った魚は心なしかタレ目な気がして、誰かさんを思い出した。『いくじなし』そう言われているように錯覚して、きっと睨むが素知らぬ顔をして魚は泳いでいく。
「轟さんには分からないでしょうね。でも、だから私は妥協したくないの。結婚にも、人生にも」
「寂しくなったんじゃないのか」
「それはそうよ。でも、妥協するくらいなら、私はひとりで生きていたい」
「人間は一人で生きられない」
真顔で言いきった轟さん。動くライトがこちらを向いて、私は眩しさに目を細めた。彼は私の両手首を掴む。もう力加減を間違えるような真似はしない。きっと彼は私が思っているよりも、器用なのだ。本当は左右で温度が違うのではないかと勘繰っていたけれど、そんなことなくて彼の手のひらから私の両腕に等しく熱が伝わっていく。『私が思っているよりも』この人に対して何度、そう考えただろう。人は第一印象が八割だと思っていたし、私が人を見抜く目は他の人よりも随分と養われているはずだったのに、そんなこと全然なかったようだ。(妥協して、誰かに飼いならされた人生のどこが『生きている』って言えるのよ)なんて、私の子ども染みた癇癪玉を本当は誰かに向けて投げつけたかった筈なのに、喉の奥に引っかかって出てこない。押し流されるように腹の底に溜まる暗くてねばついた気持ちと混じっては溶けた。「本当は分かってるんだろ、自分の欲しいもの」私に聞こえるか聞こえないかの瀬戸際の音量で囁かれた言葉はかろうじて聞き取れる。この人は、どうしてこんなにも私のことを見ているのだろう。
「だって、だから、今ここにあんたがいるんだ」
あんたが抱えているもの、思っていること、全部出してみろとでも言いたげに端的に告げた。くしゃりと私の顔が歪むのを感じる。表情を隠そうと身を引くがそれを契機に、向かい合って拘束されていた両腕のうち、片方が急に引っ張られる。バランスを崩し、私は轟さんの胸の中に引き摺り込まれた。元々の身長がそれなりにある上に、鍛えてある身体は硬かった。なのに人肌の温かみに包まれると、何度も跳ね上がっている心臓とは裏腹に、気持ちが安らぎそうになる。どこか知っているような香水のラストノートが轟さん自身の匂いと混じりあって独特のフェロモンを醸していた。
別にこの人にだって、誰にだってわかってほしくない、知ってほしくない醜い心の内がこぼれないように必死に感情に蓋をしながらも、どこか頭の片隅は冷静だった。
(きっと、私達はいま、バカップルに見えているんだろうな)
轟さんは自分たちがどう見られているかなんて気にする素振りは全く無く、私だけに集中していた。引っ張った方とは反対の手を私の背中に回して、自分よりも随分と小柄な女を簡単に腕の中に閉じ込めた。抱きしめると形容しても良いのかもしれない、身長差で離れていた頭部を私の方へ垂らして、口元を耳に近づける。あんたが意識したわけではないだろうが、という言葉と共に息が耳に触れ私の背筋にぞくりと何かが走る。「そうやって助けてほしいと逃げられると、追いかけたくなるのがヒーローってやつなんだ」轟さんはもう一度、私に回した腕に力を込める。強く抱きしめられているこの状況が、轟さんの囁きが、私から冷静さを早々に奪い去って行った。
「言っただろ。俺は、もうずっと前からあんたが何を思ってるのか、気になって仕方ないんだ」
「私、本当は、そんな気に掛けられるような、人間なんかじゃ」
私の言葉に轟さんは満足しない。言い訳を最後まで聞くことすら拒絶して、耳を甘噛みした。声が出そうになるのを必死で我慢する。こんな場所で、人から見られかねないこんなところで、驚くほど顔の整った男に迫(せま)られている。自分の弱みを的確に突いて抵抗の出来ない状況で良いようにされることに、途方もない快感を覚えてしまいそうで怖い。この時点で私はすっかり轟さんのペースに呑まれていた。さすが様々な敵と戦ったヒーローなのだろう、自分の意図する流れへ持ち込む手腕は流石だと、どこか冷静な自分が思った。私が何も言えないでいると、轟さんは再び耳元で物を言う。私の何もかもを思い通りにしてしまいそうなその声で。
「甘えてないで、しゃんとしろ。あんたなら、出来るだろう?」
「私は、強い女だから?」
こんなにも甘い声で私にこんなことを言った男は今までにいなかった。これからもいないだろう。如何して良いか分からず、私は言われ慣れた言葉で反駁する。助けを求めるようにくぐもった声は、それこそ甘えたな媚びた女の声で、自分でも気持ちが悪い。こうやって言えば、男が手加減をしてくれると知っている声だ。『そうやって男をとりこ(キープ)にするのか』誰かの責めるような声が頭の中を過ぎった。そう言われれば反論が出来ないと思ったけれど、私に対して最近それを言ったのが誰だったのか、今の私にはうまく思い出せない。轟さんの方は、計算高くわるい女にも動じた様子はなく、いつものように考えてだんまりになる様子もなく、ただ言葉を紡ぐ。
「あんたは弱いけど、ちゃんと大人の女だろ。それに、」
言葉の続きを聞くのが怖かった。私を弱い女だと見抜いたのはこの人が初めてだった。自分の弱さを知っているからこそ、大人で(つよく)あろうとしているのを認めてくれたのはこの人だけだった。いやだ。もう何も聞きたくない。彼の鍛えられた胸板と腕の中で嫌々をするように首を振っても、この人だけは容赦をしてくれない。
「それに、何に対しても必死じゃないか」
拒否の姿勢を見せる私を無視してまで言い切った轟さんの声の方が泣きそうで、こんな私はきっと失望されたのだ。弱くて甘ったれな自分を見抜かれたのが、惨めだった。視線を下に落とせば何を期待してはしゃいでいたのか、お洒落をしてきた自分のワンピースの布地が目に入って、酷く気分が悪い。
轟さんは腕の中に閉じ込めていた腕を緩め、私を拘束から解放する。見放されたのかと思って悲しさが全身を襲ってきたけれど、私を離す際に指先まで込められた優しさや思いやりのようなものを感じ、彼にその意図はなさそうだと希望を抱く。どういうことなのか、今度は自分の意志で轟さんから少し距離を取る。顔がきちんと見えた。先ほどまでどんな表情をしていたのか分からないけど、今はもういつもの無表情に戻っている。私はほとんど無意識に右手を伸ばす。気が付けば私の人差し指は彼の左目の下、痛々しい火傷の跡をそっと辿っていた。少しだけ嫌そうな表情をしたけれど、轟さんは私を拒絶しない。
「ほら、言ってみろ。わらわないから。あんたが欲しいものを、ちゃんと口に出して」
轟さんは、私の気持ちをもうほとんど掌握してしまっていた。普段はコミュニケーション能力がなくて、相手の言いたいことをうまく読み取れないような人間なのに、流石ヒーローというべきなのか、轟さんの観察力故なのか、私が心の奥底に沈めていた一番弱くて柔らかくて、醜いところを見抜いてしまったらしい。
言ったところで迷惑を掛けるだけだ。こんな子どもみたいな我がままをぶつけて何になるのか。叶わないに決まっているのに、言わせた轟さんの方が悪いとばかりに、今度こそ癇癪を爆発させるような気持ちで、私は轟さんを見据えて口を開く。私がせっかく堪えていたことを。本当は、私がずっと望んでいたことを。
「私を、私だけを大事にしてください」
涙声ながらも、はっきりとした口調で、確かに私は言い切った。優劣なく困っている人を助け出すことを生業にしているヒーローには一番、言ってはいけない言葉だと分かっている。だから婚活のマッチングにおいて、私の中ではヒーローが減点対象だったのよ。危険だからと誤魔化して、口に出して大っぴらには言わなかった理由が暴かれたように感じる。マザコンが嫌だったのも同じ理由。誰がこの先一生、二の次扱いされると知っていて、マザコン相手と結婚したいと思うの。
私の言葉(おねがい)を聞いた轟さんは、自らが宣言した通り笑わずに真剣な目で私を見ている。強い光を宿した色の違う左右の目が私を見据えた。正直なところ笑ってくれたほうが、そのほうが気楽だった。真剣に見られるとこんな歳になってまで、こんなことを望む私がばかみたいじゃないか。込み上げてくる熱いものを喉のあたりで押さえつける。生理的に滲み出す涙は、必死で目のふちに留めた。瞬きをすれば落ちてしまいそうだけれど、ここで泣くのは嫌だった。轟さんは私の目元を右手でそっと撫でた。このまま込み上げてくる液体はすべて凍ってしまえばいいのに。感情も、何もかも全部、凍ってしまえばいいのに。思いは空しく、温度を保ったまま、私の頬ではなく、男の人の指先を伝って落ちていく。
「あんただけを、大事にすることはできねぇ」
轟さんが静かに言った。分かっていたことだった。これで私だけを大事にするというのなら、いろいろな意味で失望してしまうところだった。彼はヒーローで、私は彼の特別なファンではないけれどメディアが報じているから彼の活躍も良く知っている。ナンバーワンヒーローを目指しているんだって、それも知っているのに、私一人に構っていられないのも当然だ。いろいろな感情で荒れ狂っている心をぐっと鎮めて(知っていたわ)気丈な女を気取って言うつもりだったのに、言えなかった。声を出せばはしたないことを口走ってしまいそうで、今更だけど少しの気持ちの揺れも悟らせたくなくて、口を開けない。
私が黙っていても、轟さんはそれで言葉を終わりにはしない。言いたいことは先ほどの言葉がすべてではなかったようで、少し迷いながら私の目を見た。化粧も溶けて酷い有様だろう顔の瞳だけをじっと見つめて、たどたどしく言葉を告げた。
「だけど、あんたを……あなたを一番に大事にしてみてぇとは思ってる」
一瞬、彼が何を言っているのかが分からなかった。世界が刹那だけ終わりを迎えたような静けさに包まれた。新しく生まれ変わった世界は、驚くほど私に優しく微笑んでくれている気さえする。自分じゃきっと、この答えに辿り着けなかった。私はそれでも良かったのだ。私を一番大事にしてくれるとは、なんて甘美な響きだろう。
エデンの園で蛇に唆されて知恵の実を食してしまったイヴの如く気付きを得た私は今まで自分が望んでいたものの傲慢さを知り、恥じた。前を見る。ごく近い位置に、きりりと整った真剣な表情(カオ)があった。「……ほんと?」弱々しく聞き返せば轟さんは今度こそしっかりと頷いた。私は幼子に戻ったように、わっと泣き出して、轟さんを戸惑わせる。そのまま今度は自分から彼の胸の中に飛び込んだ。如何すればよいのかと少しだけ彷徨っていた彼の手は、片方は私の頭に、片方は背中に回されて一定のリズムであやしてくれた。
この瞬間、他の誰のことも考えられなかった。ただ目の前にいる、轟(とどろき)焦凍(しょうと)その人だけが、この時の私の世界だった。
*
「今更だけど、本当に私がご一緒していいの?」
「俺が、来てほしいんだ。紹介したい」
ビジネスカジュアルと言っても通じそうな、いつかのデートよりも更に清楚な服装で、私は轟さんと合流した。今日は二人でお出かけをするのが目的ではないからだ。春のうららかな陽気に包まれてスキップでもしそうな気分のまま、私は彼の左手を掴んだ。
彼が昔、疎んじていたらしい左側。いつか私が怪我をしてしまった右手。それを躊躇いなく繋げることが、なんだか私達だけの特別な暗号のようで心が弾む。
「……お母さま、歓迎してくれるかしら?」
「大丈夫。楽しみにしているから」
何よりも一番初めのときに、あんなにも怒りを掻き立てられたお母さまのお見舞いへ、緊張しつつもこんな気持ちで向かえることが、今の私にとって一番しあわせなのである。