名前を呼んでほしい轟焦凍

ハァイ。毎度おなじみ、七篠由芽子なんだけど、お久しぶりね。覚えている? 少しご無沙汰しちゃうとみんなすぐ忘れてしまうから、ちょっと心配だわ。なぁんて、ね。忘れっぽいのはむしろ私かしら? とかいうと、私のご友人たちから執念深い癖にとヤジが飛んできてしまうわね。
あれからのこと、当然なんだけど地雷持ちハイスペックをお相手に選んでしまった私達がすんなりと物事を進められるわけもなく、結構経つのに婚約者止まり。早くしないと私も三十歳を超えちゃう! このアラサーの焦りを分かろうともしないあの男との付き合い方は、だいたい分かってきたつもりよ。ご心配なく。
今日はそれを証明しようと思ってきたのよ、どうぞ、ごゆるりとお楽しみくださいな。

     *

新婚ヤオちゃんの愛の巣ともいえる新居に遊びに行かせてもらうことになったのは、私が轟さんと婚約してから半年後のことだった。お互いバタバタしていたのもあったけれど、なによりヤオちゃんお仕事が忙しすぎてお引越しどころじゃなかったからなの。正式デビュー前から注目を浴びていた美しく賢く強い彼女は私と同い年だけど、アラサーみを感じさせないので、『美しすぎるヒーロー』として連日ワイドショー、ニュース番組、はたまたCMまで引っ張りだこだ。雄英時代の伝手か、スネークヒーロー・ウワバミさんに手配されてアルバイトしていた時から芸能活動は少々行なっていたものねぇ。学生だってことで、自粛はしていたけれど。このままだと下手したら女優業までやらされるのでは? と勝手に幼馴染のよしみで危惧していたんだけど、本当に打診があったらしい。これは流石に断ったと。思わず笑った。
そんなこんなで結婚式どころでもなかったので、祝いの品を持ってようやくこの秋口に新居にお邪魔させていただけることになったのよ。まだ残暑の気配の残る季節だから、着るものに迷ってしまうわね。オールシーズン用のお気に入りのワンピースを選んだのは正解と言えよう。
ヤオちゃんはSMSでは頻繁にやり取りしていたものの久しぶりに会う幼馴染を歓迎してくれて、いろいろとお茶だのケーキだのを用意してくれていた。実は鬱憤を晴らすように、ヤオちゃんの休みに合わせ有休をとって突然の連絡で訪れたにも関わらず、嫌な顔一つせず歓待してくれるヤオちゃん大好き。私はこういうところも疎いけど、ヤオちゃんの選ぶものに間違いがあった試しがないので、美味しく頂いていた。
「――で、轟さんったら私の料理、口に合わなかったみたいですごい何とも言えない顔してんの。まずいならまずいって言ってくれればいいのに、一応気を使って隠そうとしてたみたいでそれがまたむかつくのよね」
「轟さんってクールに見えますのに、案外顔に出ますわよね」
「そうなの! で、私がどうしたかというとね、轟さんがお母さまのお見舞いに行っている間に冬美さんにお料理習いに行ったの」
私がそう言うと、ヤオちゃんは「あら、お姉さまとも懇意にされてらっしゃるのね」と少し驚いたようだった。頷いて肯定する。私の表情が芳しくないのは自分でも自覚があるが、ヤオちゃんはそれがまた面白いらしく、少し頬の筋肉を緩めていた。私と轟さんのこれをヤオちゃんは痴話喧嘩と受け取っていて、SNSや電話でやり取りする際も愉快がってた。何を言っても仕方がないので、私はしかめっ面のまま話を続ける。
「冬美さんに聞いた味付け――つまり、お母さま直伝の轟家の味なんだけど、それを出すとね、轟さんは無表情なのに黙々と口へ運ぶの。もう、私、たぶん、一生お母さまに勝てないわ……これだからマザコンは嫌だったのに」
「そんなこと言っても、由芽子さんは今まで仕事にかまけてあまり料理をされてなかったのだから、仕方がないのではないでしょうか」
「そうなんだけどさ……轟さんの馬鹿……っ! って言いたくなるのも仕方がなくない?」
仕事は楽しいしバリバリ働いてきたこと、今でも働いていること、結婚しても止める気がないことは後悔していない。だけれど、過去の自分に対しても、やさしさ故にまずいと言わずに食べてくれる轟さんに対しても、うちに嫁ぐのはいろいろ大変だろうからと親切にいろいろと教えてくれる冬美さんに対しても、それを微笑ましく見守るヤオちゃんに対しても、いろんなことに恨めしく思っていたら、ヤオちゃんは、ふふっと笑った。
「時間が解決してくれますわよ、きっと。私達もそうでしたから。たくさん、相談に乗ってもらいましたでしょう?」
「そうだけどォ……」
「それより、由芽子さんはいつまで轟さんを、そうやって呼ぶつもりなのか、そちらの方が興味ありますわ」
げっ、嫌な質問来た奴。私がとっさに答えられなくて、どうやって話題を逸らそうか、悩む時間を見つけるために、ヤオちゃんが用意してくれたケーキを咀嚼する。私と同じく間もなく三十代に差し掛かりつつあるヤオちゃんなのに肌ツヤがとても良く、あ、これ、事務所に大事にされてるやつだと思い知る。愛だとか恋だとかそういう概念的なものより信頼できるのは、金だ。金を掛けて手入れすればするほど、肌はツヤを保つというのは私の持論である。
それに加えて私が轟さんに出会った頃と同じような愉悦を瞳に湛えて、赤く上気した頬に手を当てぷりぷりする。あ、これ、既視感ある。
「今となっては、轟さんと由芽子さんは好い仲でしょう。なのにどうして、名前で呼び合わないのです? というよりも由芽子さんの問題でしょうか。親しみと共に呼び方を変えてらしたもの」
「あーー、んーー、特に理由はないんだけど――」
答えるのを出来るだけ引き延ばそうとしていても、ヤオちゃんは期待を込めた表情を止めない。観念するしかないか、と思った丁度その時、チャイムが鳴る。ヤオちゃんは、待ってました、とでも言いたげな顔にパッと切り替えて、立ち上がった。「見てきますわ、ちょっと待っててくださいね」とだけ言い置いて、玄関の方に向かった。オートロックの画面は見ないのか。嫌な予感がする。と思った数秒後、それは間違っていなかったようで、ヤオちゃんは長身の男性を伴って帰ってきた。白と赤のツートーンカラーがチャームポイントの、いわゆる私の婚約者である。
「……ヤオちゃん?」
「轟さんに、連絡しておいたのですわ。由芽子さん、構ってもらえなくて拗ねていらっしゃるわよって」
「ヤオちゃん!!!」
目の前でそんなやり取りが行われていても表情を変えず、平然と「連れて帰っても良いか、八百万」と聞いている。どうして、ヤオちゃんに聞く。私に聞いてくれ。私は今日はヤオちゃんに会いに来たのに。
「どうぞ。そのつもりでしたから」
「……なんか、悪かったな。感謝する」
私には一切口をはさむ余地もなく、ドナドナされてしまうのであった――ヤオちゃんに「今度は轟さんのこと抜きで遊びにいらしてくださいな」のお言葉には少しの気まずさとたくさんの喜びを感じたけれども。

     *

自家用車でここまで来ていたらしい轟さんは、私を助手席に詰め込んでから運転席でハンドルを握った。「何処へ行くつもり?」「さぁ、何処へでも」つまり、決めてないってことね、相変わらず何も考えていない男だわ、と今は彼に対して含むところがあるからそう特に思いながら、大きくため息を吐き出した。
発信させた車は平日の昼間ということもあってか、渋滞もなくスイスイと進んでほんの少しだけ気分を良くさせる。決めていないという割には迷いなく進めるので、実はどこかに何か予約しているのかもしれないと思ったけれど、何事に対しても迷わないのは彼の長所でもあり短所でもあるから、わからない。その決断力はヒーローとしては重要でも、私生活ではマイナスで働くこともあるのよ。とりとめのないことを考えて窓の外を眺め、不機嫌さを醸し出していた私は「で、何で由芽子は俺の名前を呼ばねぇんだ?」彼からの不意打ちの質問に激しく動揺してしまった。
「べ、つに、特に理由なんてないけど……呼び方を変える機会がなかったから」
「珍しく分かりやすい嘘だな」
「失礼ね」
「珍しくねぇか。あの頃から、由芽子は分かりやすかった」
あの頃というのは、きっと、彼に絆されてしまった時を指すのだろうと分かってしまって、顔が赤くなる。夜じゃなくてよかった。周囲が暗闇であれば、きっと、鏡のように私の表情の変化が見えてしまっただろうから。
「言うつもりがないなら、深くは追及する気はねぇが。物間は呼ばせてるだろ、名前」
「寧人くんは、そうね……たしかに」
呼び方を変える機会がなかったのも理由のひとつなのは間違いない。ただし、彼のお姉さまを冬美さんと呼びながら、婚約者である彼自身を轟さんと呼び続ける理由にはならないだろう。ご家族に紹介されたその時に変えてしまえば良かった。なのに、それをせず私を頑なにさせている訳がないとは言えない――
ただ、私は嬉しかったのだ。気にしている風には見せないのに、彼こそ拗ねたように私に理由を問い質すその姿勢が。私を一番に大事にしようとしてくれてはいるものの、いまいち私に関心を寄せているとは思えなかった彼が、私を気にしている。それが分かって、氷のように凝固していた気持ちが少し溶ける。
「みんなと同じように呼びたくなかったの」
「八百万だって、あんたと同じように呼んでるぞ」
「そうじゃない。テレビをつけてもラジオを聞いても、新聞を開いても、ショート、ショート、ショートって。同じように焦凍って呼びたくなかった」
「結婚しても、『轟さん』か?」
先ほどまでと違って、その口調が少しからかうような声色だったから、それが物珍しくて窓の方を向いていたのから振り返る。『轟さん』は少しだけ口元を上げて「ようやくこっち向いた」と悪戯が成功したように言う。
「……結婚する気、あるわけ?」
「どうして無いと思った?」
「だってなんか、ごたついてるし、寧人くんに相談したら、思わせぶりにしてるだけじゃないかって言われて」
「……あいつ」
「ごめん、勝手に相談して。でも、女の適齢期のこと、少しは気にしてほしいの」
僕に乗り換えるなら今すぐ籍を入れるのもやぶさかではないけど? と言われたのはしっかりと隠して要望を告げる。マリッジブルーじゃないけれど、婚約というだけではいろんな不安があるのは分かってもらえるかしら。彼から贈られた指輪は今日もしているけれど、それをそっと反対の手で隠して、私は運転中の彼を見た。
彼は少し戸惑ったように、「姉にも言われた、それ」冬美さんのお腹にはもう命が宿っていて、だからこそ彼女は私のことを気にしてくれたのだろう。子どもを考える女には、女にしか分からない不安があって、ひとりで生きていくのもやぶさかではないと言い続けた私も、この期に及んで子どもが欲しくなってしまっていた。その気持ちを、冬美さんは察してくれたのかもしれない。
「だからこのまま、ご両親にあいさつに向かっていいか?」
「えっ」
「明日、伺うことは了承を得ている。今日は一晩、近くにホテルを取ったから、このまま結婚の許しを得よう」
「轟さんの方は?」
「うちは、俺の嫁に来てもらうなら、由芽子以外にいないという結論になった。親父と母を会わせたくなかったんだけどな……お母さんが二人で話したいって聞かなくて、それでごたついてたんだ。事務所にもケリをつけた」
うちはまた今度、正式に挨拶に行ってそれで役所に提出しよう。運転中だから前を向いたままだけど、まじめな顔でそう言われて、私はどうしていいか分からなくなった。だけれど、肯定以外のカードは最初から持っていない。頷いて、それで、彼が今、こっちを見られる状況じゃないって思って、「ありがとう」と口に出す。本当はもっとちゃんとしたところで言うべきなんだろうけれど、と前口上が置かれたので私もこの後の内容を想像して身構えた。きっとそれは、間違っていない。
由芽子、結婚しよう」
「……はい、よろしくお願いします」
先ほども言ったように、これ以外の答えを私は持ち合わせてない。それでも、何かが足りないなと思って、私は少し恥ずかしく思いながら「焦凍さん」と付け足したのだった。