《私》が《わたし》、つまり《・ジャック》になったのは、実はそんなに昔の事ではない。
つい半年程前、なんの因果か元の世界から弾かれてハイラルの、このお嬢様の身体の中に吸い込まれた。
顔立ちは彫りが深かったり鼻が高かったり、私よりも随分西洋人っぽくて髪の毛も金色。慣れるのにかなり時間が掛かったけれども、24時間不眠不休で……というか寝ている間もこの身体にお邪魔していた訳なので、慣れない訳にはいられなかった。
何処も自分に似ているところがない、とは言い切れない彼女の顔立ちがそれを手伝っていただろうと思っているのだが、それを言うつもりはないし、そもそも言う相手も居ない。
ただ違うのは、くりくりとした大きな翡翠色の綺麗な瞳。これが、彼女の美しさを引き立てているといっても過言ではない。
また、私がこの身体の主導権を得た時に、記憶も溶け込んだ。
今まで私が経験したように、彼女の記憶が私のものとなったのだ。
そして、今までの自分の記憶、それが薄れてきた。《私の記憶》と《わたしの記憶》はごちゃまぜにかき混ぜられ、どちらが本当なのか、今ではその判断も出来かねる。《私》が使っていた名前も、もはや思い出せないのだから。
どこかおかしいのではないか、と何度も思いはしたが、そんなことを《お父様》やメイド達に打ち明けられはしない。
悶々とした気持ち悪さを抱えながら、日々過ごしていた。
幸いながら、頭の中がごちゃごちゃしているとはいえ、この閉鎖的な空間の中で生活する分には、非常に困るという自体は未だ無い。
そのために脳内の整理を怠った。そのことを後悔する時が来るなんて、微塵も考えない。
ただこの時は、気が狂っていないことにホッと安堵し、自分を褒め讃えるのみである。
お嬢様にありがちな強制イベント。
お見合いだったり、お食事会だったり、貴族達の嘘に満ちあふれた駆け引きだったり。
もちろん、それに参加せざるを得ないことは数度ありはしたが、もともとこの《お嬢様》は我が侭な気質らしい。
彼女に習って、嫌だ嫌だと喚き散らせばお父様も諦めてお食事会の間、《わたし》を部屋の奥に閉じ込めた。出来の悪い娘の所為で、家の質を下げられては敵わないと。私の前で言葉にしてはいないが、おそらくそんなところだろう。
そんな外聞を気にする背景には、この家はかなり位の高い家系らしいことも含まれる。
ハイラル王家の傍系の血が流れているとも聞く。
そのせいだろうか、《わたし》が《私》になってから3ヶ月、王家に仕えるとある吟遊詩人が執事として我が家に派遣された。
それが、シークという青年だった。
螺子が跳ねて、消えた
薄いカーテンから光が差し込んできて、目が覚める。
むくり、と起き上がって、私はベッドから出た。
本来、メイドの声掛けから始まる《この少女》の一日だが、《私》になってからは、こうして勝手に起き上がる。
豪華なドレスだらけのクローゼットから、比較的地味で動き易そうな服装を選び、適当に身につけた。
起こされるのは別に構わないのだが、洋服を着るところまで自分ではなく使用人にやらせると言うことが私には気に喰わなかった。
何故そこまで、人にやらさなければならないのか。
《彼女》が疑問に思っていなかった事からして、産まれたときからこの生活を続けていればそう違和感を持たずに済んだのかもしれない。
だが、幸か不幸か《私》は元々、庶民である。
人の手を煩わせるのは、こちらとしても本意ではない。
たったそれだけのために人を待つのだって、かったるいし。
「お、お嬢様、朝でございます」
どうやら、私はメイド達に良くは思われていない様で、少女達は絶対声を引きつらせて私を呼ぶ。
「わかってるよ」
低血圧の所為で、存外不機嫌そうな声が出た。
これか。これのせいか。
彼女達が恐れる理由も解ったが、こればかりはどうにもならない。
《お嬢様》に比べたらマシだと思うんだけど。
どうやら、あの子はなかなか目が覚めない上に、起こそうとしてくれたメイド達を蹴飛ばしていたみたいだし。
寝汚いというか、なんというか……これに関しては、もちろんの事ながら無意識下の出来事なので《彼女》の記憶には無く、メイド長が話していた事を盗み聞いたのだけれど。
私の返事を聞いて、メイドがそそくさとドアの前を去ったのを気配で確認し、小さくため息をついた。
面倒だなあ、と呟き、顔を洗って軽く髪をブラシで梳く。
銜えていた髪紐を手に取り、緩いひとつくくりにすると、部屋から出た。
瞬間、声をかけられる。
「おはようございます」
「……おはようございます」
驚きを隠す事無く十分に沈黙を置いてから、返事を返した。
挨拶をした青年シークは、笑顔を見せる事無く抑揚の無い声で「御領主が待ちくたびれてましたよ」と告げ、さっさと歩き始めた。
なによ、コイツ。と思っても言わない。面倒な事態に発展しても困るからだ。
それに彼自身が隠しているため一応知らない振りをしているとはいえ、彼は王家から派遣された「監視」だと予測している私としては、余計な事はなるべくしたくない。
反乱分子だと判断されて、この贅沢な環境を放り出されたらどうすれば良いのだ。
こちらの知識が有るとはいえ、それはお嬢様であるための知識だけだ。
庶民として生きていくには不安要素が有りすぎる。その方が、性に合っていたとしても。
何を嗅ぎ回っているのか。知りたいが、あまり迂闊なことは言いたくない。
もしも、それらは全て私の被害妄想だったとして、ただ単に「執事」としてだけの役割しか持たないのであれば、それはそれで構わない。
「今日の予定を知っていて?」
私が尋ねると、慣れたようにすらすらと並べ立てる。
毎日毎日お稽古ばかりであることに飽き飽きして、深くため息をついた。
それに対してここで文句を言うのが《わたし》なのだろうが、それを言う気にもなれなかった。
長い廊下の先に、ダイニングへの無駄に大きな扉が見えて、私は密かにほっと安堵した。
彼と歩くのは息が詰まる。
どうして、彼が毎朝とは言わないまでも私を迎えにきてくれるのか、それは執事の仕事というよりかは、監視の仕事故なんだろうな。と勝手に想像した。
「……気にいらないのですか」
普段なら、私の様子など気にも留めない彼がそう聞いてきて、私は瞠目した。
思わず足を止めて、彼を凝視する。
それでふと気が付いたけれど、なんだ彼の顔立ちは《この少女》の顔立ちと似てなくもない。
実は血の繋がりのある弟で――――どこかのメロドラマのように、復讐でもされるのだったらたまったものじゃない。
小さくため息をついて、「どうして?」と彼の問いに問いで返す。
「…いえ、気になさらないでください。お嬢様は、私の事がお嫌いのようですし」
きわめて事務的な声色で、それでいて内容は矛盾していた。
私が彼の事を嫌いだろうと、仕事なのだからそんなこと彼には関係ないだろう。
元王宮勤めの美男子。
そんな優良物件に群がるように集まっていたメイド達を一蹴していたのを私は知っている。
女など、その目的の前では微塵の興味も抱かせないのでしょう?
「御領主がお待ちですよ」
私につられるようにして足を止めていた彼は、私をそう促してスタスタと先に歩き始めた。
追いかけながら、チッと心の中で舌打ちをする。
(面倒だな……)
私が彼を嫌いというのは、当たらずとも遠からずだと思う。
苦手。
その一言で説明がつくのではなかろうか。
嫌いではない。大前提として、私がここで生活するようになってから新しく知り合った、初めての人間だったのだから。
「いや、でも……キライで間違いは無いか」
私を誰かと重ね合わせる様なそんな視線を向けられ、勝手に落胆される様子には正直うんざりだった。
廊下の窓ガラスから差した光が顔に直接当たり、私は思わず目を細めた。