そこは真っ暗で、夜だった。
まん丸よりも少し欠けた月が辺りを照らしており、夜空には星が遠慮なく各々の自己を主張していた。
《私》であったときには絶対に見ることも出来なかったような、満天の星空である。
私がぽつん、と立っている草原の前の方には湖があって、その水面に触れるか触れないかスレスレのところに人影が見えた。
座り込んでいる黒い男。ぼんやりと中途半端に満ちている月を眺めている。
その人物はそっと振り向く。
「なんだ……また来たのか」
真っ黒の衣に身を包んでおり、髪の毛は透き通るような漆黒だった。
そして、瞳はギラギラと真っ赤に染まっている。
シークみたいに宝石のような輝きでもなく、ナサニエル=エースのように胡散臭さも感じない。
純粋に、完全に、三原色のアカだった。
吸い込まれるように、その瞳から目を離せない。なんて力を持った赤色なのだろうか。
水面付近に近付き、私は男の隣ーーといっても男からは数メートル程離れた場所に座り込む。
私がそっと息を吐くと、男は立ち上がりこちらにやってきて、私の目の前で停止する。
そして、そっと私の顔を覗き込んだ。
彼の真っ赤な眼球に、私の怪訝な顔が映る。
「ああ、そうだったな。お前は覚えていないのか」
納得がいったように、一抹の寂しさも見せずに彼は私を見た。
逆に私は納得がいかない。
疑問を持ったまま、じっと彼を見つめ返していると、彼は少しだけ苦笑をして説明した。
「つい二日程前、お前はここに来てるんだよ、。今回と同じように夢のなかでな」
その言葉で、私の思考回路は完全にショートした。
我に返ったのは、僅かその数秒後だったけれど、動揺する間もなく私は固まったのだ。
(ああ、そうだ)
私は笑みを深める。
私の名前は、《わたし》じゃなくて《私》の名前は《》だった。
呼ばれたことで、その名前がじわじわと《私》の精神に染み込んでくる。
名前を返してくれた。他でもない、目の前の男が。
私は、《私》だ。
「どうして…私の名前を?」
疑問に思って多少詰問するように聞くと、彼は目を逸らす。
うー、だとか、あー、だとか言いにくそうに呻いている様子から、前回来たと言う二日程前に私から聞いた訳では無さそうだ。
「実は、お前とこうやって会うのはこの間が初めてじゃないんだよ」
ポカン、としていると、彼は「だから言いたくなかったんだよ」と垂れた三角帽子を外して頭を掻いた。
目を細めてじっと見ていると、なんとなく、なんとなくだけれど、記憶のなかにぼんやり彼を見つけられたような気がした。
「何年前だったか、何処かでな。もちろん、成長しているみたいだが、魂が一緒だ。俺には解るんだよ……人間じゃない、魔物だからな」
自嘲の笑みを浮かべた彼に対して、なんて言えばいいのか解らなかった。
数秒だけ間を置いて、私はそっと尋ねる。
「アナタの名前は……?」
「あー…名前は無いんだが、お前はダークと呼んでいた。俺は、勇者ーーリンクの影、ダークリンクと言う名称だったから」
「そう」
自分のことを指し示すのに、名称だなんて普通は言わない。
彼の、自らの存在に対する深い否定を感じたような気がして、私は何とも言えない気持ちになった。
そういえば、シークも自分で自分を否定しているような印象があったけど。
影と、そう呼ばれる人達は皆、何かしら自己に劣等感を抱いているのだろうか。
「前に会ったという時、そのときも私はこんな、格好だった?」
「ああ。前のときも言ったが、透き通るような黒髪が似合ってる」
褒め言葉を言うのは慣れていないのか、照れたように顔を背ける。
ただ、私は疑問に思った。
=ジャックは金髪だ。
なら、ダークの褒める、《透き通るような黒髪》とは、誰の物だろうか。
ハッとして私は水面を覗き込んだ。
月明かりに照らされて、映し出される顔立ち。
そ れ は 、 《 彼 女 》 の モ ノ で は な か っ た !
「これ……これは?」
「あ? お前は前に会ったときも昨日会ったときも、ずっとその顔だけどな」
ダークにそう裏付けされなくたって、高くない鼻、主張しすぎない骨格。何処か幼げに見える雰囲気。モンゴロイドらしい顔つきは間違いなく日本人である自分のものだ。
鏡で=ジャックの顔を見る度に感じる違和感などこの顔には無く、むしろ、特別美人という訳ではないこの顔が親しみ深い。
自分がこの顔立ちだということは、不思議としっくり来る。
ダークは、その気はなかったかもしれないが、私に《名前》と《身体》の2つを返してくれた。
人並みに警戒心を持つ私だけど、この怪しさ満点の風貌であるダークをもう殆ど信用してしまっていた。
頼って、寄り掛かって、依存してしまいたい。そんな欲求が頭をもたげる。
「ダークは、私の味方?」
「お前、ソレ前の時にも聞いていたな……そのときは、返事をする間もなく消えたが」
少しだけ訝しむように私を見て呟くものだから、私は「で? 答えは?」と返事を急かした。
ダークはまたしても呻いてから、考えがまとまったのか私に言う。
「そうだな……お前が俺の存在を否定しないなら、味方でいてやっても良い」
アイデンティティを守れと。私が助けを求めているように、ダークも私に助けを求めていると錯覚した。
私は頷く。
「わかった。だから、ダーク。ーー助けて」
他人に助けを求められない強がりな性格をしている私が、こんなにも素直にこの言葉を言えたことを、私はこの先も不思議に思うだろう。
自然に彼に手を伸ばす。ダークも私に腕を回した。
そして、溶け込むようにして、視界が真っ暗になった。
04
Thursday midnight
意識がふっと浮上して、目を細く開けると金色が煌めいた。
夢と現実とが混同していて今、自分が何処にいるのか不安で仕方が無かったけれど、徐々に解ってきた。
ここはハイラル城の、・ジャックに宛てがわれた部屋だ。
ということは、私は結局《彼女》の中に収まったということだろう。
けれど状況は前とは違う。前はただ、訳も自分自身のことも解らずにただ《彼女》の身体に従属していただけだ。
ぼんやりと現状を把握して、先ほど煌めいた金色は目の前でホッとしたように息をつくシークの髪色だったと、納得する。
(私は。夢の中、湖畔でダークと名乗る魔物と会った)
脳内で暗唱して、「大丈夫。覚えてる」口の中だけで声を出さずに呟いた。
一度だけ瞬きをする。
そして、何事も無かったようにシークに目を合わせた。
相変わらず、違和感の残る燕尾服に、隠された左目。そして右目に輝くルビー。
倒れる前に会ったときよりも、若干やつれた顔つきで少し不審に思った。
レースのカーテンが掛かっている窓の外に目をやると、外はもう暗かった。
星が瞬き、月が輝く空の黒は、ダークと遭った時のその色と似通っている。
「……もう、夜なんだ」
目が覚めてすぐだからか、声が掠れる。
それでも、シークには届いたらしい。
彼は頷いて、私を窺うように見る。
「ああ。ゼルダが心配してたから、が目が覚めたと知らせさせるけれど。調子はどうだい?」
ーーいま、一瞬、誰のことか解らなくなるところだった。
あまりにも、自分は《》だと、言い聞かせていたから。
そうだ。私は、わたしは、ここでは・ジャックだ。
「絶好調とは言えないわ」
こんな時でも皮肉った言葉を使ってしまう自分が嫌になる。
そう言った瞬間、ちらりと紅い瞳の奥に覗かせた心配の色を乗せたシークにも、罪悪感が募った。
「……もしかして、あなた、ずっとそこでわたしのこと見てた訳?」
やだ。なんか自意識過剰な子みたい。
自分で言って思ったけど、シークは微塵もそんな雰囲気を見せずにこくりと頷いた。
「……姫様に、きみの世話を仰せつかっているのは僕だからね。それに、僕ときみは知らない仲じゃない。心配して当然だろう?」
「そう…ね」
上辺だけの言葉じゃない。
シークの言葉は気持ちが籠っていて、だから惹き付けられる。
どうしてだか、とても私に親近感を抱いているようだし。
それでも、気持ちがぐらつくのは、自分が弱っている証拠だろう。
(わかってる。彼が、何の他意もなく言ってることなんて)
それにこんな一見、私に気のあるような台詞を言っていたって、彼が一番に思っているのは王女様なのだ。
……だいたい、私はこんなところで浮ついている場合ではない。
シークにどう思われていたって、関係ないはずなのに。
なのにーー。
(きっと、長いこと、屋敷で関わっていたからだ)
彼はフランに続いて、屋敷の中で2番目に私と関わり深かった人物である。
その上、フランとは違い、私と彼の間には使用人と雇い主という壁は薄かった。全くないとは言わないけれど。
彼の方が、身分が上かもしれない。その把握どころか、彼のことなんて全く知らない中での駆け引きは、実を言うと爽快だった。
「ねえ、シーク。ゼルダ様と、お話の続きがしたいんだけど」
吹っ切るように、思い切って申し出た。
だが、シークはそれに顔を顰める。
「……」
「ねえ、いいでしょう?」
「明日にした方がいい」
沈黙で返すシークに、私が重ねて尋ねるとシークは厳かに告げる。
体調を心配しているのはわかっている。
それでもじれったく思って、もう一度口を開こうとするが、シークは私の唇をそうっと手のひらで覆った。
息が出来ない程、キツくはない。
ただ、緩やかに、真綿で首を絞めるかの様に拘束しながら、私をそっとベッドに押し戻す。
「きみは今、眠るべきだ。それからでも、遅くはないだろう?」
反論がしたかった。
けれど、それ以上に身体が怠くて、脳が回らない。全身で睡眠を欲していた。
欲求に正直に従い、信じられない程ふかふかである高級な布団に身を包まれて眠りに身を任せた。
今度は何の夢も見なかった。少なくとも、湖畔と黒の男が出てくる、あの夢は。
もしも覚えていないだけだとしても、覚えていないなら、見ていないのと同じこと。