全てが嫌になることってあると思う。
私は、何もかもを投げ出して、今、奈良にいた。叔父の家から引っ越したことに対して家族が良い顔をしていないというのもそうだし、難航している就職活動に対してもそうだし、本当に何もかもが嫌になってしまったのだ。
奈良を選んだことに特別な理由は無い。財布と定期だけ鞄の中に突っ込んで、何も考えずに向かった先が、奈良だったというだけだ。近鉄奈良駅付近は少し栄えているような、寂れているような何とも言いがたい駅前の光景だけれど、そこから少し歩くとやはり古都なのだなと納得する町並みが見えてくる。大阪の都会の方では見られない緑の光景。京都だったらあるけれど、ああ、でも京都とはやはり空気が違うのだ。きらびやかで雅やかな雰囲気を持つのが京都ならば、奈良はもう少し落ち着いた雰囲気だった。京都といえば、花街の舞妓さんや芸妓さんを思い浮かべるからかもしれない。京都とは違って、奈良にはそういった華やかさの面影を感じることは少ない。もしかしたら、これは、私がまだ物知らずの小娘だからかもしれないけれど。
京都と言えば一、二回生の時にお世話になった神社を真っ先に思うからかもしれないけれど。祇園は先斗町をはじめとして、そういう地域だから。大学も京都にあるし今住んでいるところも京都だけれど、やっぱりあの祇園の辺りは外の人間が抱いている『京都』の印象を色濃く醸し出す。
十分くらい歩いただろうか、頭の中で考え事をしていたからよくわからない。公園を突き抜けて、県庁の前を通り過ぎ、私は今年の一月――つい二ヶ月程前にお世話になっていた神社へ辿り着いた。一週間も通っていれば、何も考えなくとも迷わずに辿り着ける。それでも、足が動くままに、敢えてここへやってきたことを思えば、私は彼に会いたかったのだろうか。
突然だったから、連絡もしていない。もしかしたら出張のご祈祷やらで彼はここにいないかもしれないし、今日はお休みで、どこかへお出かけしているかもしれない。
(ああ、せめて、お菓子でも買って来るんだったなあ)
そうしたら、お正月にお世話になった、そのお礼という名目が出来たものを。だけれど、このまま道路に突っ立っているわけにも行くまい。せっかく来たのだし、と私はお辞儀をしてから鳥居をくぐった。
(相澤さん、いるかなあ)
いたとしても、いなかったとしても気まずい。
手水舎で手をすすぎながら、私は考える。有名なしだれ桜はまだ開花前で、ああ、開花する時期になったらまた来たいなと思った。少し躊躇してしまう気持ちを抑えながら、私は授与所の方を覗く。あれ、誰もいない? と思ったけれど、何やら作業をしていただけのようで、たまたま戻ってきたばかりの女性と目が合う。静子さん――相澤さんのお母様だ。静子さんは「あら」と珍しいものを見たかのように少しだけ目を見開いたが、相変わらず冷静に「いらっしゃい、さん」と声を掛けてくれた。理由は問わないのかと、そう思って少しホッとする。
「こんにちは」
「恭太郎に会いにきたの? でも、今はあの子、ちょっと外に出ていて」
「あ、いえ! ちょっと気分転換に来たんです」
「そう」
「あの、ご本殿にお参りしてきても良いですか?」
「ええ、もちろん」
「そのあと、御朱印をお願いしたいなーなんて」
「ええ、構わないわよ。とりあえず、ご本殿に行ってらっしゃい」
相変わらず目つきはキツいし、口調も堅いけれど、男勝りで格好良いんだよなあ、静子さん。相澤さんも顔つきはそっくりなはずなのに、どうやら中身はお父様似らしくどこか頼り無さげでほわほわとしているんだよね。
相澤さんがいないことを知って、少し肩の荷が下りたかもしれない。もしもいたとしたら、こんな唐突に、しかもそれほど親しくもない私がやってきて、向こうも戸惑ったに違いないのだから。ご本殿に向かい、ご祭神様に二ヶ月振りのご挨拶をしたあと、授与所の方へ歩いて行った。
そうすると、名前を呼ばれてそれを待っていたかのように静子さんは手招きをしている。別にそんなことをしなくても、御朱印も頼みたかったし一度戻るつもりだったのに。けれど、そんな静子さんの様子がなんだか貴重に思ったのでちょっとラッキーと思いながら近付いた。
「さん、今から予定とかあるかしら」
「えーと、特にないですけど……」
「それならこっち入ってきて。ぜんざいとか、お嫌い?」
「えっ、大好きですけど! もしかして……」
「沢山あるから、どうぞ食べていって。もうすぐ、恭太郎も帰ってくるだろうし」
淡々とそう告げたあと、「私は用意してくるわね」と言って授与所から出て行ってしまう。今日は暇そうだし、いいのかな……とか思いながら、私はお正月に巫女アルバイトをしていた時に使用していた出入り口から神社の中に入った。
いや、でも、ぜんざいを授与所で食べるわけにはいかないだろう。何処へ向かえば良いのか悩んでいたら静子さんがやってきて部屋へ案内してくれる。私達が着替えたり寝泊まりだったり(徹夜勤務は無かったけれど、大晦日の夜からお勤めをして、元旦の朝一番からまたお勤め再開だったので、巫女アルバイトの私達も永室神社にそのまま寝泊まりさせていただいたのだ)に使用していた部屋だ。お正月には何にも無かったそこだけれど、来客用にかな。小さな机と座布団が四つほど置いてある。ここで待つようにと言われて、私は頷いた。やることもなく、またスマートフォンを開くのも嫌で(どうせ来ているメールは全て就活関連のものに違いないし、そんな現実を見たくないから今こうしているのだから)、きょろきょろと二、三度部屋の中を見回し、縦軸を眺めた後は天井をぼーっと見つめていた。
しばらくして、静子さんはおぜんざいを運んでくる。なにか一緒に紙袋も持ってきているけれど、これはなんだろう。ちょっと疑問に思ったけれど、ぜんざいの隣に箸休めの塩昆布も一緒にあるのを見て、私はちょっとテンションが上がった。その様子を見て「まるで恭太郎ね」なんて言いながら静子さんは、向かいに座った。
「授与所の方は、大丈夫なんですか」
「すぐに戻るわ」
「それに、ぜんざい、頂いちゃって……今更ですけど」
「いいのよ。どうせ、恭太郎のだから。それに、お代代わりと言ってはなんだけど……」
私がさっき不思議に思った紙袋をこちらに寄せた。中には小さな紙袋、それからお米やらなんやらが入っている。
「恭太郎が帰って来るまで暇でしょう? お供えを作っておいてくれると助かるわ。あと、お下がりね。お下がりの材料はここにあるから……」
そう言いながら、静子さんは立ち上がって箪笥を開ける。御神酒やお守りがごそっと出てきて、ああ、静子さんってこういう人だった。と思い出して私は思わず苦笑してしまった。
「お正月にやってくれてた通りで良いから。じゃあ、食べ終わったらよろしくね」
そう言って、静子さんは出て行ってしまう。
うん。いいんだけどね、こういう単純作業嫌いじゃないし。そう思いながら、私は割り箸を割って、ぜんざいに手を付ける。こういうのは、あったかい方がおいしいしね。甘過ぎもせず、かといって甘さが足りないわけではないこのぜんざいはとても美味しかった。ああ、至福。目を瞑ってぜんざいを食す。身体の心から暖まるようで、疲れていた自分が癒されていくのを感じた。時折、塩昆布も頂きながら食べ終わった時には、ちょっと一仕事するか。という気分にさえなっていた。
どのくらいの時間、お下がりを作っていただろう。お供えの材料は最初からあまり沢山入っておらず、早々とお下がり作りにシフトしていた。まだ一時間経ってないくらいかな。でも、来た時よりも随分と太陽の位置が傾いているなあ、と思ったところで、がらりとふすまが開いた。
「さん!? わ、ほんとにいた!」
「わ!」
驚いた様子の相澤さんだが、こっちのほうがもっと驚いた。袴姿なのはいつものことだけれど、外出用なのかいつもと違う羽織を来ていて、どきりとした。なんだか、相澤さんが年上のよう。まあ、年上なんだけど。やっぱり、社会人と学生の差って大きいよね。随分と遠い人のように思える。そんな自分の内心を何故だか悟られたくなくて、そっと押し隠し、文句をつける為に眉を寄せた。
「ノックくらいしてくださいよ、もう」
「え、あ、ごめん」
「まあ、和室でノックって変ですけどね。一声かけてくれても良かったんじゃないですか。相澤さん」
「ごめん……」
「でも、すみません。突然押し掛けた挙げ句、居座って、ぜんざいまで頂いちゃって」
「僕のぜんざい……」
「すみません」
ぜんざいについては、ちょっと名残惜しかったらしく、ちらりと空の容器を悲し気に見たので、私はもう一度謝った。「さんはいいんだけど、いつもこうやって減っていくんだ」どうやら、静子さんが相澤さんのおやつを客人に振る舞うのはよくある話らしい。肩を落としているのがなんだか不憫で、やっぱり手みやげでも買ってくるべきだったかと反省した。
「ごめんなさい。今日、何も考えずに来たのでお菓子持ってきてないんです。手みやげくらい持参すべきでしたよね」
こんなつもりじゃなかったし。と付け加える。こんなつもり、とは中にお邪魔させてもらうつもりってこと。勿論、お下がりを作ったりアルバイトみたいなことも想定の範囲外である。
相澤さんは私の言葉に慌てて首を振った。一緒に手も振っているからとても滑稽である。でも必死な様がおもしろくて、このひと本当に変わらないよなってなんだか感心してしまうくらいである。
「い、いいんだよ。いつでも遊びにきてくれて……それに、お母さんがお手伝いさせてしまってたみたいで」
「……とにかく、着替えてきたらどうです?」
私の言葉に、相澤さんが自分がまだ外出用の装いだったことに気が付いたらしくて「あ」と声を漏らす。「す、すぐに戻ってくるからね」と慌てて出て行った。別にそんなに急がなくても、私はいなくならないのに。
言葉通り、すぐに戻ってきた相澤さんは私の向かいに腰掛けた。ラフな格好に、やっぱりファッションとかには頓着しなさそうだよなあ。ユニクロとかいそう。下手したら静子さんに買ってきてもらってたりして。と、勝手に失礼な想像をする。そんなことを知る由もない相澤さんは、私にお茶を出してくれた。さっき一緒に持ってきてくれたらしい。
「……さん、今日はどうしたの?」
「特に理由があったわけじゃないんです」
私の返事に、何か思うところがあったのか黙ってしまった相澤さん。私は静まった空間を不得手とするわけではないけれど、この不自然な沈黙にはちょっと困ってしまう。何か無理矢理にでも話題を作ろうかと思った時に、相澤さんは口を開いた。
「……もしかして、さん。すごく疲れてる?」
人の顔色とか、心中とか推し量るのがとても苦手そうなこの人に、そう言われたのが心底意外だった。もしかして、私は隠し切れない程に疲れを見せてしまっているのか。間違ってたらごめんね、という風に気弱な相澤さんに対して「間違ってないです」と私は冷たい口調で返してしまった。ちょっと驚いたように、だけれどおどおどとして私を見ていた相澤さんには申し訳ないけれど、私はどうしてだか甘えたくなってしまった。
「就活もうまくいかないし、家族とだっていざこざしてしまうし……どうしていいのかわからなくなって、誰に何を相談していいのか分からなくなって、現実逃避をしにきたんです」
「さん……」
「私、柄にも無く、ちょっと疲れてるみたいです」
ごめんなさい、小さな声で謝ったそれを相澤さんが拾ったかどうかはわからない。静かな部屋で聞こえてないということはないだろう。だけれど、私はもう一度「ごめんなさい」と言った。
「相澤さんにもご迷惑ですよね。そう分かってたから、いないって知った時にちょっとホッとしたんです」
「……」
「相澤さん、優しいから、こうやって話を聞いてくれちゃうでしょう?」
私の問いかけに似た独り言に、何を返して良いか分からなかったらしい。相澤さんは困ったように、「さん」ともう一度私の名前を呼んだ。「すみません、相澤さん」困ったようなその表情も、私は嫌いじゃないんです。そんな想いを込めて、私は何度目か謝った。
一度、目を伏せて相澤さんが用意してくれたお茶を飲む。ほうじ茶だった。あたたかみは残っている物の、もうだいぶ冷めてしまっているらしい。私は、長居したんだなと思って少し申し訳なくなった。
「僕は、話すのが上手い方じゃないから、上手に言えないんだけど……」
「相澤さん?」
「さんは、いつもがんばりすぎるんじゃないかな」
「相澤さんには言われたくないですけどね」
「僕は気の抜き方を知ってるから」
「……静子さんに怒られるくらいに?」
「それは言わないで」
相澤さんの苦笑した気配を感じて、そこに呆れが含まれていないか怖くなった私は顔を上げた。私の懸念は無駄だった。そこには心配を隠し切れず、けれどどこか真剣な様子しかなかった。いつもぼんやりと何を見ているのか分からない瞳は、今、しっかりと私に定まっている。
「僕の進路はずっと決まってたし、家族でのいざこざもあまりないからよくわからないけど……でも、ここで悩めるさんが、僕はあの、いいなって……」
最後の方は徐々に小声になっていき、恥ずかしそうに言葉をぼやかしてしまったが、要するに、相澤さんはいまここにいて、こうやって悩んでる私を認めてくれるのだ。私が言葉を紡げずにいると、相澤さんは私が不愉快に思ったと考えたらしい。
「あの、悪い意味じゃないよ? 感受性が強くて、羨ましいって……」
「相澤さん。大丈夫です。だいじょうぶ」
これ以上、何かを言われたら泣いてしまうかもしれない。相澤さんの方を見ていられなくなって、私はまた瞳を伏せる。わたわたとした彼の態度を感じるが、ああ、顔を上げられない。ぐっと血の味のする熱いものが込み上げてきている気がするし、なんとなく顔のほうにも熱が行ってる気がする。自分が今、どんな表情をしてるのかがまったくわからない。なのに、とどめを刺すように相澤さんは動くのだ。
「だいじょうぶだから、さん」
「……」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
それしか言葉を知らないかのように、相澤さんは唱える。そのうちに、ゆっくりとこちらに寄ってくるのが影の様子で分かった。おずおずと躊躇いがちに頭の上に手が乗せられて、それで私は溜まらずに涙を一粒だけ零した。ぽたり、と机の上に溢れた水滴に、悔しさと安堵が綯い交ぜになった。私はまだ、泣けるのだ。それに、
(私は、この人の前で泣けるのだ)
相澤さんの慌てた様子とは反対に、私の心は凪いでいた。私は、いつのまにか、この人を自分で思っていた以上に信頼していたし、自分の近いところにおいていたのだと自覚してしまう。ああ、これ以上、これ以上何かを言われたら――
心が危険信号を出していた。これ以上距離を詰めてしまったら、取り返しのつかなくなる。わかっているのに、私は拒絶出来ない。
彼は何も分かっていないに違いない。いつものようにおたおたとして、何処からかなにかを取り出した。
「つ、疲れているんだったらね、やっぱり甘いものだよ」
差し出されたのは、なんの飾り気もない氷砂糖だった。一粒ずつ小分けになっているのが少し珍しいかなと思いはしたが、どこでも売っていそうなただの氷砂糖。「僕もね、疲れた時は良く食べるんだ」とどこかズレたことを言う相澤さんの顔を、思わず見てしまった。相澤さんはびっくりしたようにこちらを見る。それでもすぐにその表情は取り去って、ふわりと笑った。男性に、こういう表現は失礼かもしれないが、それでも思ってしまった。花が咲くような笑顔だと。ぐらり、自分の中で何かが傾くのを感じる。
差し出された氷砂糖と躊躇いがちに受け取る、その刹那に触れ合った指先から私の、まだ制御しきれていない感情が伝わってしまう気がして恥ずかしくなった。顔に血流が集中する。ああ、私は今、この人に落ちてしまった。(す、きだな)私は、この人の前で泣けるのだ。もう一度思って、先ほど彼と触れ合った震える指先で、目の縁に溜まっている涙をそっと拭き取った。
もっと後に書こうと思ってた話。恭太郎は4回生(卒業式後)、ヒロインは3回生。こうなるまでの話もいつか補完します。
お題は、人魚と柩 さんよりお借りしました。
20140206 執筆