シリウスと氷砂糖


《シリウスと氷砂糖》

 夕方も疾うに過ぎた時刻である。夏であればまだ日が沈みきっておらず、赤い世界であるだろうこの時間でもこの季節となるともう真っ暗で、きら、きら、とそろそろ星が顔を出している。スマートフォンを弄る為に指の出ている手袋をしているせいで、指先は冷えきっていて画面の反応もあまり良くない。彼の実家までは数分もあれば行けてしまうだろう、この公園まで来ておいて、どうしてあと少しの勇気が出ないのだろうと嘆息した。
 ベンチに腰掛けて、ため息を零す。ジャケットの右側のポケットの中に入れてある氷砂糖。その小分けのビニールを破り、夜空にかざす。白く、半透明なそれは空に掲げるとほんの少しだけ綺麗だったけれど、やっぱり本物の宝石やら、星空やら、そんなものには敵わない。おとなしく自分の口に入れてから、凍りそうな指に息を吹きかけて擦る。ほんのりとした甘さが口の中に広がってちょっとだけ幸せな気持ちになるものの、カイロも持ってきていない自分の見通しの悪さを脳内で罵った。(せっかくここまできたけれど、もう、帰ってしまおうかな)と思ったその時、ぴこんとメール受信の音がなった。綾本さんからだった。見れば30分以上前のメールで、どこがスマートだっていうの、と自分のぽんこつを罵りたくなってしまった。機種変更してからずっと後悔しているが、もう今更どうしようもない。もう、何もかもうまく行かないな、と思いつつメールを確認する。

『恭太郎くんとは、会えた?』

 からかっているのか、心配しているのか、よくわからない顔文字と共に送られてきたその短文メールに、私は「いいえ、まだです」と返信する。帰っちゃダメだと諭されたようだと思った。メールに気が付くのがあと少し遅ければ、帰ってしまったのに。綾本さんは――いいや、もしかしたら何処かで見ているかもしれない神様が、それを許してくれなかったのかもしれない。自分から、逃げるなと。そう言われた気がして、私は立ち上がった。立った瞬間、体勢を変えたせいで、衣服の隙間から冷たい風が入り込む。思わず、ぶるりと震えながらも私はスマートフォンを操作する。呼び出したのは、彼の電話番号。一瞬だけ躊躇いはしたが、もうどうにでもなれとばかりに発信する。発信音、とぅるる、とぅるる、とぅるる、鳴り響いて6コール目。『もしもし、相澤です』「あ、です」『えっ、さん!?』この人は、電話を取るときに、着信主を見てなかったのか。それとも、私の電話番号、登録していただけてなかったのか。少しだけ動揺してしまった気持ちを押し殺して、何事も無かったかのように言葉を紡ぐ。声が揺れていないか、それが、それだけが心配だ。彼の前では、冷静沈着な自分でいたい、動揺を悟られたくない。もう何度も失敗してしまっているから、余計に。

さん、こんな時間にどうしたの? と、というか、いきなり電話って……もしかして、何かあった?』
「いえ、なにも……ただ、声を聞きたいと思って」
『えっ、えっ……』

 動揺してしまった相澤さんに、「冗談ですよ」と言ってやると彼はちょっと恥ずかしくなったように『そ、そうだよね。どうしたの?』と改めて聞いてきた。「……」言葉に詰まってしまう。明確は用事はないのだから。どうやって誤摩化そうか。なんて思いながら答えを求めるかのように周囲を見回した。遠くに見える施設はとっくに閉じてしまっているし、ここいらのヌシとも言える鹿たちだって、疾うにどこかへ帰ってしまっている。当然のように、鹿せんべいを売っている人たちもいない。冷たい風が、ひゅうひゅうと吹くだけで、何にも手がかりなんてないのだ。

(それに、返す言葉なんて、私の用事なんて、ひとつしかない)

 立ち上がったまま電話を掛けていたのは少し不自然だと思ったけれど、今さら座り直そうだなんて思わない。「相澤さん」無意味に呼びかけて『さん?』私は深呼吸をする。「相澤さん、私」『……?』「私、相澤さんに会いにきてるんです」えっ、と戸惑う声が電話越しに耳に届いた。歓迎も、拒絶も含まない、ただただ不思議がっている声。それもそうだろう、私と彼は、もう1年近く会っていないのだから。あの未曾有のお正月から、もうとっくに一年が経っている。私は、大きく息を吸い込んだ。刺すような、冬の凍った空気が肺を満たす。それを体内でゆっくり温めてからそっと唇から逃がしてやる。

「相澤さん、私、あなたに告白をしにきました」

 今、外に出られますか? そう囁きながら、私の足は彼の自宅へと向かっていた。小さな道路に面している、その鳥居の見える位置に辿り着くまで、そう時間が掛からなかった。私の発言の後、電話越しに息を呑んだ声が聞こえてから、返事はまるでない。ただ急いで階段を下りている様子だとか、靴を引っ掛ける音だとか、勢い良く扉を開ける衝撃だとかが電子を通じて窺えるだけだった。緊張しているような、慌てているような、それでも切実な息づかいが耳を届くたびに、私はどうしようもなく、なきそうな衝動に襲われる。それを誤摩化す為に、落ち着く為にあまい、あまい物体を口の中に入れようと、ポケットの中から取り出して、なのに、たべてしまう決心は抱けずに右手でぎゅっと握りしめる。

(相澤さんが来る。来てくれる。あんな恥ずかしい宣言をした私に、一年も音信不通だった私だとわかっていて)

さん!」

 その声は、二重に響いた。先ほどまでご祈祷でもしていたのか、浅葱色の袴を履いた彼は、髪の毛を振り乱しながら、らしくなく声を荒げていた。「さん!」鳥居の下で、道路の反対側にいる私を見付けもう一度叫んだ彼は、こちらへ渡ってこようとする。「待ってください!」私が叫ぶと、相澤さんは動きを止める。どうして、と言いた気な顔をして、彼は私を見た。どうしてって、今この状況で近付いて、私が平常を保っていられる自信がないからだ。今だって大分まともではないけれど、未だ、泣いてない。

「あの発言を聞いて、来てくれたってことは、私の気持ちを聞いてくれるって思って良いんですよね?」

 人からの好意というものは、重い。好かれることは嬉しいことではあるけれど、人ひとりを受け止めるということだ。同じ思いを返してくれるにしても、拒絶をするにしても、一度は受け止めなければならない。無かったことにするのではなく、ここにきて、受け止めてくれるということだけで、私には充分だと思えてきそうだ。他ならぬ、相澤さんが、そうしてくれるのだ。

さん、僕……」
「相澤さんの感情を無視して、ごめんなさい。私は、やっぱり。やっぱり、あなたのことが好きです」

 相澤さんは、良い人だ。顔だってわるくない。私が連絡を取らなかった1年の間に、だれか好い人がいたっておかしくないのだ。もしかしたら去年のお正月に来ていた、女学校の先生との中が発展しているかも――そんな彼の状況なんてまるっきり無視をして、いきなり押し掛けてきて、私は暴力的に気持ちを告げる。酷い女だ。必死過ぎて、醜い。それでも気丈に見られたくて、私は必死に平静を装う。声が震えてしまってること、お願いだから気付かないで欲しい。鈍い相澤さんだから、もしかすると。
 無意味ににこり、と笑って、私は言う。

「同じ感情を返してくれだなんて、言いません。そんなの、都合良過ぎ、ですよね。わかってます。努力もせずに、勝ち得ようだなんて」
さん、」

 相澤さんは私の言葉を遮るように名前を呼ぶ。びくり、と方を震わせる私を見て、心配そうに眉を下げた後、道路を渡ってくる。車通りはもうほとんどない。神社も含め、日が暮れてから営業している店なんて、ここら辺りでは余り無いのだ。長い足では、私の元へ辿り着くのなんてすぐのことだった。「もう良いんだよ、さん」何を諌めてくれたのかは、分からずじまいだった。一段高い歩道の上に立っている私、車道にいる相澤さん。それでも身長は相澤さんの方が高くて、複雑な気持ちになりそうだった。「ごめんね」何故謝られたのだろう、すぐには察することは出来なかったけれど、ああ、振られたのか。気持ちを伝えるだけでも良いとか思った、数分前の私、ばかじゃないか。だって、こんなにも。かなしさやさみしさが染み入るように何かが漏れ出してきそうな心を封じ込めて、暴れ出そうとする感情の渦を制御して、冷静を装ってこちらこそ、ごめんなさい。すみません。謝ろうと口を開きかけたが、その言葉は彼の行為によって静止される。すっ、と取られる左手。スマートフォンを握っていないその手を、相澤さんは男性にしても大きめの手で包み込んだかと思うと「冷たい」と一言。「ごめんね、待たせてしまって」「相澤さんは、自分の責任じゃないことまで謝るんですね」あなたは、すぐに来てくれたじゃないですか。振られたんだとしても、きてくれた。それだけで、私の恋心は、すくなくとも報われるんです。一年間、宿主に水も栄養もやらずに放置されていたよりも、よっぽど。泣かない。泣きはしない。泣いて縋るだなんて、そんな底意地の悪い、浅い女になんてなりたくない。そんな思いとは裏腹に、抑え切れなかった感情がじわり、と瞼の淵に滲み出る。「さん?」「ご、めんなさい」熱いものが塞ぐ喉を、漸く声が通り抜けて、返事をすれば、相澤さんの息を呑むような様子が聞こえてきた。

「……相澤さん、何で、来てくれたんですか」

 答えるつもりが無いなら、どうして来てくれたんですか。報われたと思った傍から八つ当たりをしてしまいそうな、自分なんてだいきらいだった。私の情けない問いかけに、相澤さんはやっぱり困った様子のまま答えを探しているようだ。しばらくして、そうだね……と相槌を打つように呟いて、そして気の抜けるような声で、それでも確かに言った。

「僕も、その、君に告白をしにきました」

 えっ。
 はじけるように、見上げれば、私の遥か頭上にある相澤さんのかおは真っ赤だった。これでもか、というくらい真っ赤は頬を片手で隠しながら、それでも視線は私からそらさない。いたたまれなくなって視線を外すと、自然と夜空の星々に目がいった。ひと際輝くあの星が、私達を見下ろしていて、あんまりにも明るいものだから、私達の様子も全部見られているんじゃないかと思った。
 それで、ふと少し頭の熱が冷めて自分達の状況を思い返せば、反対側の右手は未だ私の左手を掴んでいるんだってことに気が付いて、そこが燃えるように熱くなった気がして、だって、そんな、相澤さんと触れ合ってるだなんて、急に恥ずかしくなって引っ込めようとすると、それを察したかのように相澤さんはぎゅっと握る手に力を込めた。「逃げないで」「あの、はい……」「お願いだから、もう急にいなくならないで。きみまで」何かが堪えているかのような、相澤さんの声に、逃げようとしていた気持ちは消え失せた。「それって、私、期待してもいいんですか?」「えっと、うん……」ちょっと困ったような、それでも肯定の返事を頂くと、恥ずかしさが倍増する。増幅したその感情を誤摩化すかのように、私はもっと大胆な行動に出た。「相澤さん、」名前を囁きながら、おずおずと、彼の腰に両手を回す。右手は食べ損ねた氷砂糖が握りしめられたまま、左手は繋がれたまま、それでも構わなかった。不安に思っている私を察したのか、相澤さんも同じようにおずおずと私の頭をとん、とんと撫でた後、すっと背中の辺りに手を回してくる。びくり、と身体が震えてしまうのは仕方が無い。「ご、ごめん」謝って離れようとする相澤さんに、「離れないでください」だなんて私、どこか壊れちゃってるのかもしれない。

「相澤さん、ごめんなさい、私、」
「もう急にいなくなったりしないよね、さん」
「はい、すみません」

 言いながら、私はぎゅっと握りしめていた氷砂糖を、人差し指と親指で掴んで、そして見えもしないのに夜空に掲げる。相澤さんはもしかしたら、少し不思議がっているかもしれない。構わない。私に、もうこれはいらないのだ。あの時、相澤さんがくれた氷砂糖。だって、あの時抱きつけなかった相澤さんが、私をそっと包んでくれてる。きっと、今は、涙も拭ってくれるだろう。代用のあまさなんて、もういらない。見えもしない輝きなんて、どうだっていい。指でつまんだ氷砂糖をそっと落として、おずおずとじゃない、今度はしっかりと手を回して、相澤さんの胸の辺りに顔を埋めた。




あとがき

この話は2011年冬頃のお話です。恭太郎は25歳社会人3年目、ヒロインは24歳社会人2年目。
お題は、Lump さんよりお借りしました。

20140207 執筆