「日本人で『あなた』と言うのはデヴィ夫人だけ、なんて言う人もあるけれど、ねえ、透クンは『YOU』っていう単語をどう思ってる?」
リビングのソファで寝転がって本を読んでいる年下の男の子を見付けて、こっそりと寄ってソファの後ろから声をかける。突然話しかけられたせいか、しかもそれが彼に馴染みのない若い女の声だったからか、彼はびっくりしたように上半身を起こして本を閉じた。
ぎょっとしたような表情をそのままに、「……さん」と確認するように私の名前を呟く。「こんにちは、透クン」「こんにちは」戸惑いはまだあるだろうに、きちんと挨拶を返してくれる辺り、教育がきちんとされているんだなあと思う次第である。
「ちょっと綾本センパイにお窺いしたいことがあって、お邪魔してたの」
「ああ、そうですか」
「ごめんね、読書の邪魔して」
「いえ」
淡々と答えるところは変わってない。先にリビング行ってて、と言われた綾本センパイの言葉に従ってリビングに来たはいいものの、透クンいるし迷惑じゃないかなあと思って、手持ち無沙汰に立ちすくむ。一度、綾本センパイの部屋に帰るべきだろうか。そう思っているうちに、なんと透クンの方から声が掛かる。
「……俺は教会には関わらないんで」
一瞬何かと思ったが、最初に私が適当に放った質問に答えてくれたらしい。やっぱり律儀な子なんだよな。こうして相手をしてくれるから、調子に乗って私は質問を重ねて見る。
「透クンってキリスト教徒ではないの?」
「俺は……」
答えにくそうにしている透クンに、さすがに踏み込んだ質問をし過ぎたかなあと反省する。質問を取り下げようとしたところ、透クンが何かを言おうとして――でも、その前にリビングに声が響き渡った。
「ごめんね、さん! ちょっと遅くなっちゃった、って、透いたんだ」
「悪いか」
「いいや、全然?」
にまにま、と何が楽しいのか笑っている綾本センパイに嫌そうな顔をする透クン。力関係が歴然である。四つも離れた兄弟だとこうなるのか。私にはよそよそしくも丁寧な透クンが綾本センパイ相手だと露骨に不機嫌になるのがおもしろい。って、私も透クンを不愉快にさせてる一員なんだろうけど。綾本センパイの方は、相手によって態度を変えることなく、ひょうひょうと、一見やさしいものだから面白みも無いのよね。一見やさしいっていうのは失礼か。今現在進行形でお世話になってるのだから。綾本センパイはやさしいひとである。ただ、触れ幅が大きくて、やさしいだけじゃないっていうだけで。面白さの為なら他人の迷惑をあえて考えない面もあるから、時々振り回されるよね。これもご愛嬌ってところだけど。
「そうそう、さん。信徒さんからお土産を頂いたんだ。甘いもの、大丈夫だよね?」
「ええ! いいんですか!」
「いいの。どうせうちで食べ切れない分は恭太郎君――友達のお腹に消えるだけだから。あ、透も今食べる?」
「俺、部屋戻ろうか?」
ちらり、とこちらを見て、それから綾本センパイの方を見て、気まずそうに切り出した透クン。「あ! ごめんね、気を使わせちゃって。むしろ、透クンがここにいてくれた方が助かるかなって」「そうだよ」私達の言葉に不思議そうにしたあと、「じゃあ、俺も食べる」と言って浮かしかけた腰を再び落ち着かせた。
「じゃ、取ってくるね」
そう言って、キッチンの方に消えた綾本センパイを目で追って、それから透クンを見たら、さきほどまで読んでいた本をソファの端の方に起き直していた。こちらに向き直ったかと思えば、「あの」と声をかけてくる。首を傾げて続きを促したら、透クンはおずおずと口を開く。
「何で、俺がいたほうが……?」
「だって、綾本センパイと私、付き合ってないから。私達くらいの男女がずっと同じ部屋にふたりきり、ってやっぱり変じゃない? ほら、ご家族の目も気になるし」
私の言葉に、目をぱちくりさせる。あ、今の可愛かった。やっぱり、年下の男の子の無垢さって正義だなあ。綾本センパイよりかは、お母さん似――つまり、日本人の血が濃く出ているようだけれど、クォーターなことには変わらない。日本人には有り得ない彫りの深さとか、髪の毛のふわふわさが彼のどことなく浮世離れした雰囲気を冗長させている。こういう表現を思春期の男の子に使うのは良くないかもしれないけれど、ちょっと天使みたいだった。綾本センパイは見た目は天使だよね。中身は悪魔だけど。
「あの……兄貴と、付き合ってなかったんですか?」
透クンが知ったらちょっと嫌そうな顔をしそうなことを考えていたら、透クンはこれまたおずおずと、だけれど驚きは隠さずにそう問いかける。ん? あれ? どういうことだ? 男女が親しくしていたら、こういった誤解を受けるのはまあ、無くはないことだけれど、まさか透クン――綾本センパイの家族さんからそう見られていたことにちょっと戸惑う。
「透クン、あの、もしかして私と綾本センパイの関係――」
「――やっぱり、誤解してたんだね」
どこか喫茶店のウェイターみたいに、お盆の上に切り分けたロールケーキを三つと飲み物の入ったグラスを乗っけて片手で運んできた綾本センパイが私の言葉を引き取った。
「綾本センパイは、善意で私の面倒見てくれてるだけですよ」
「善意で? こいつが?」
「透、なんで疑うのさ」
「私が泣きついたんだよ。綾本センパイ、私のゼミの教授さんとこでTAみたいなことをしてて。ですよね、センパイ」
「まあね、女の子の頼みは断れないから」
その言い方に、透クンはジトっと綾本センパイを見た。まあ、たしかに、今の言い方はどうかと思うけど。センパイが持ってきてくれたロールケーキにフォークを刺しながら、私はくすりと笑った。「それにさ、」綾本センパイはケーキに手を付けようともしないで、透クンと私を見比べる。にたっと笑った感じ、あ、なんかやばい気がする。と、危機感を抱いた時点でもう既に遅過ぎたらしい。私がセンパイの言葉を遮ろうしても、間に合わない。
「さん、透のこと、結構気に入ってるでしょ?」
僕もさんのこと気に入ってるからさ、透と上手く行けばいいなって思ってるんだよ。
悪びれる様子も無く、私の心の内を勝手に暴露した綾本センパイを私は許さない。でも、怒る前に顔を真っ赤にしてしまうのが先立った。
「あの! えっと、違……くはないけど! 変な下心とかは無いから!」
いや、私、何を言ってるんだ。聞かれてもいないのに、何を弁解しているのだ。ここで言い訳はむしろ、一層気持ち悪いだろ。冷静な自分が頭の片隅で怒濤の突っ込みを入れるが、それを対応に反映させるのは追いつかない。わたわた、おたおたと何かよくわからないことを口走って、それで余計に墓穴を掘るだけだ。前に出した手を必死に振っていたけれど、それもなんだか虚しくなって「や、なんかごめんね、透クン……」最終的にはよくわからないままに謝っていた。キッと綾本センパイを睨む。でも、羞恥で真っ赤にした顔では全然迫力が足りなかったみたいで、どう考えてもおもしろがってる綾本センパイの表情は崩れない。何度かしかあったことの無い、お兄さんの後輩に変に興味を持たれてたって、気持ち悪いでしょう。「本当に、ごめんなさい」ともう一度謝って、透クンを見た。けれど、そこには想像していた軽蔑の眼差しは無くて。
「いや、俺こそ、無愛想なのに……や、すみません」
なんでお互い謝り合いっこしてるんだろう。
私が冷静にそう思った時には、綾本センパイは我慢し切れずに噴き出して、ひとり大笑いしていた。許さない。けれど、透クンの真っ赤に染まった頬を見てたら、なんかどうでも良くなってきた。恋愛的な意味で恋をしているとか、そういう感情はなかったけれど、なんかその反応を見ていたら、じわじわと何かが浸食されていく気がしてきた。
(これは、やばいかもしれない)
いや、やばいぞ。二つも年下だぞ。いや、大学生だからありか。いや、でも、綾本センパイの弟さん……うん、ないな。やばいな。我ながら、混乱しているな。と思いながら、ロールケーキを黙々と口の中に突っ込む。透クンも喋らずに、ケーキを食している。そんな私達を見ている綾本センパイの視線を感じながらも、意地で顔を上げなかった。(気まずい……)早くこの場から逃げ出したくて、出されたケーキを平らげると、「ごちそうさまでした! あの! 私、帰ります!」と叫ぶようにして立ち上がる。「もっとゆっくりして行ってもいいのに」「いや、でも、用事を思い出したので!」「嘘ばっかり」こんな嘘をつかせたのはどこの誰だよ。いや、私の疾しい心が原因です。いくら個人のプライヴェートな感情を暴露されたからって、これは八つ当たりだ。しかも、相手は年上の先輩だ。落ち着け。おちつけ。心の中でじゅげむじゅげむ、と唱えて(混乱した時にこれを声を出さずに暗唱したら結構落ち着く気がしてる)、私は「透クンも、邪魔してごめんね。ありがとう」と早口で言ってリビングを後にした。
綾本センパイのお宅には、何度かお邪魔していて玄関までの行き方も分かる。ぱたぱたと足音が聞こえてたので綾本センパイがついてきてくれてるのだろうと思って、「変な態度とってごめんなさい」と振り向き様に謝った――ら、ついてきていたのはセンパイじゃなくて、透クンで。
(いや、少女漫画とかだったら王道の展開だけど。でも、いや、まさか)
一度は収まりかけていた混乱がまた復活。言葉を探しては、うまく掴めずに落としている間に、透クンが重たい口を開く。言って良いのか、どうなのか迷っている調子で、ゆっくりと「また、遊びにきてください」小さな声だったけれど、それはとても真摯に響いた。
「う、うん。透クンがいいなら、もちろん!」
捨て台詞のようにそう言って、私は扉を開けて玄関から抜け出した。血流が全部脳を目指してやって来ているようだった。こんな表情、他の人に見せらんない。頬に両手をやって、包むように顔の温度を下げようとするけれども、うまくいかない。ぶるぶる、と震えたスマートフォンをポケットから取り出した。どくりどくりと心臓から力強く送り込まれる血液の影響で震える指先で、上手く操作が出来ない。今きたメールには『透のアドレス→xxx@xxx.ne.jp 健闘を祈る( ´ ▽ ` )ノ』と書いてあってなんだかちょっとイラッとした。ほんと、あの人マイペースだなあ。
それでもちゃんと連絡先に保存した私は、まあ、現金なんだろう。そんな自分を、あんまり悪いとは思っていない。
文学部専攻の大学3回生。工くんの後輩。透くんは大学1回生。なイメージ。
お題は、人魚と柩 さんよりお借りしました。
20140203 執筆