さん、というのは僕の憧れの人だ。
古株ながら、僕よりも少し上くらいの地位にいる。たいした事は無いのかと見せかけて、オールマイティにいろいろなことをこなす。
いつも駄目だと自嘲するあの人は知っているのだろうか。海軍本部という戦場において、とある地位に『生きて』存在し続けるというのは、実は昇進コースのエレベーターに乗るよりも難しいということを。
ある程度の地位でとどまっている人間なんていない。たいていは、上へ伸し上がるか、さもなくば死が待っている。
ただでさえ海軍本部において、彼女のように優しくてたおやかな微笑みを無条件に振りまいてくれる人物というのは非常に珍しい。
その笑顔が、僕に対してだけ時々曇るのはなんとなく知っている。
ルフィさんの話をしても、きちんとまともに受け取ってくれるのが彼女だけだから調子に乗りすぎたのだろうか。彼の話をしているときは、うっすらと無理をしているのが何となくわかる。
それでも、止められないのは、彼女のあんな表情をしているのを見られるのはその瞬間の僕だけだから。
そう言ったら、ヘルメッポさんには呆れた顔をされた。それに、彼女からも時々振ってくる話題じゃないか。ルフィさん達海賊を憎んでいる訳ではないと思う。
この感情が独占欲だというのは理解できるけれど、果たしてそれは『女性』に向ける感情《モノ》なのか、大好きな『上司』に向ける感情《モノ》なのか、いまいちはっきりしなかった。
それが、彼女との別れのとき、彼女の台詞を聞いてハッとした。
『来週からスモーカー准将の管轄へ異動だからさ』
やけに晴れ晴れとした、信頼し切った表情を浮かべるさん。
スモーカー准将とお知り合いなんですか。
『うっかり惚れちゃったりしたら大変!』
……それは、嫌だ。さんが、誰かの特別になるのは、嬉しくない。
ようやくはっきりとしたその気持ち。でも、遅かった。
あのときだったらまだ間に合ったのかもしれない。
ヘルメッポさんにも、「なんで引き止めなかったのか」と詰られた。言い返したら、僕じゃなきゃ意味がないと。まるで、僕がさんのトクベツであるかのように――
だけど、僕でも意味がなかったんだと思う。
「こちらに帰ってくるときは、連絡くださいね!」
決死の想いで告げたその台詞は黙殺され、彼女の思いのほか小さくて遠い背中に消えていった。
もう『帰って』来る気はないんだと、確かにそう告げられたのだろう。
「(さよなら、さん)」
心の中でそうやって告げたのに、やっぱり諦められなかった僕がいる。
いろいろと理由をつけて、スモーカー准将への用事を請け負って僕(と、巻き添えにしたヘルメッポ)(どうやら、僕らは2人で1セットに考えられているらしい)はスモーカー准将の部署へと向かう。
同じ海軍本部といえども、部署が違うと建物が違って、しかもスモーカー准将はそのほとんどを海の上での海賊討伐で過ごすのだから、見計らって向かうのは割と難しい。
「すみません、ガープ中将の使いで来たんですけど……」
そう言いながら、スモーカー准将の場所を入り口近くにいたたしぎ少尉に尋ねると、准将の個室にいるという。たしぎ少尉は今から休憩時間だそうで、一緒に休憩を取る約束をしている相手を待たしているから、案内は出来ないと言った。
その後、大きな音とともに慌ただしく出て行った少尉の悲鳴が廊下で聞こえたような気がしたが、もはや名物とも言われる少尉のドジ属性が発揮されただけだろう。
「おい、たしぎ少尉ってかわいいよな。あのドジっ娘な感じが萌える」
「そう? すみません、ガープ中将の使いで来たんですが、」
ヘルメッポの言葉を適当に流し、あまり気にしないで准将室の扉をノックした。
「入れ」
低い声で許可される。
そろり、と扉を開けると充満していた煙が襲ってきた。
けほけほ、と僕ら2人で咽せながら准将を見る。
(これが、彼女の新しい上司。そして、同期、か……)
そう思っていると、准将はニヤリと笑った。
なぜか良く分からなかったが、良い予感はしなかったので黙ったまま資料を差し出した。
多分、有力な海賊達の報告やら、そんなのだろう。
「ピンクの小僧のお出ましか」
「はい?」
「いや、が前に言っていたな、と思ってな」
意味ありげな視線が、なんだか居心地が悪かった。
ヘルメッポさんは僕の後ろで、「ほら、言わんこっちゃない」と言いたげなため息を重々しくこぼす。
「言っとくが、あいつを手放す気は無いぞ」
ニヤリ。もう一度スモーカー准将は笑って、僕を挑発的に見た。
この場合、文脈的に『あいつ』とはもちろんさんのことだろう。
手放す気はない。それは、そういう意味でなのだろうか。
「ちょっと待ってくださいよ、准将。が好いていたのは、コイツでしょうが」
僕に向けて指を指しながら、ビクビクと進言するヘルメッポさん。
僕はびっくりして、目を見開いた。
それに対して、気分を損ねたように准将は葉巻を銜えた。
「言われるまで気付かないような馬鹿をいつまでも思ってると思うか? なんなら直接聞いてもらっても良いぞ。今日、仕事を終えた後あいつといつもの酒場で約束してるんだが。今はあいつ、休憩時間でたしぎと食事に向かったから、しばらく帰ってこないだろうしな」
「……いえ、いいです」
そう答えるしかなかった。
なんとなく親しげなのは、彼女が異動する前から分かっていたし、男女でアルコールの席と言えば、だいたい相場は決まっているだろう。
しかも、准将はあからさまにさんに対して好意を抱いてるし、さんだっていい大人だ。そういう付き合いをしていても、全然おかしくない。
ヘルメッポさんはやっぱりなんだか言いたげに、僕を見ていたが他にどうしろって言うんだ。
「お忙しいところをすみませんでした……失礼します」
「失礼します」
僕らが部屋を出る直前、スモーカー准将はポツリと言った。
「あいつは、ああ見えて嫉妬深い女だ。相手が、男だろうが海賊だろうが、妬んでやまなかったようだな」
ヘルメッポさんは、どうしてか納得ができなかったらしい。
こういうと語弊がある。僕自身だって、納得は出来なかった。
決して、ヘルメッポさんが言うように僕がそういう意味で好かれていたとは考えられない。
スモーカー准将の最後の言葉にはなんだか心当たりはあったようだけど、それを僕に教えてくれる事は無かった。曰く、「少しくらい自分で考えろ」だそうだ。
仕事を終えて、ストーカー紛いに僕らはスモーカー准将の部署の近くの酒場をいくつか梯子した。
それでも、彼女と准将は見つからなくて、もしかしてあれはでまかせだったんじゃないかと、ヘルメッポさんは言った。そうだと、ホッとするし嬉しいのだけど、やっぱり神様は残酷だ(神様なんて、存在しないのかもしれない)平素は信じていたけれど、今度ばかりは呪わざるを得ない!
酔いつぶれる直前だった僕らは、そろそろ帰ろうかと酒場を出た。
ちょうどその時、その斜め向かいの酒場から、男女のカップルが寄り添って出てきた。
目立つだろう、あの男の存在感は異常だ。
「嘘だろ……おい」
ヘルメッポさんがつぶやいたのと、全く同じ事を僕だって言いたかった。
でも、それどころじゃなくて、声すら出なかった。
だって、だってそれは、スモーカー准将とその腕にしがみつく僕が見た事も無いような、とんでもないくらいに色気のあるさんだったのだから。
彼女がガープ中将の下にいたときに僕らが毎日見ていた、あの慈愛の微笑みはどこにも見当たらない。
そこにいたのはお酒の力も合わさって、色気だけが増量したあでやかな女性だ。
あまりにも視線を送り続けていたからか、男の方がこちらを振り向いた。
――――ニヤリ
スモーカー准将は、「ほら見ろ」と勝ち誇ったかのように僕らに、いや僕に視線をくれてやった。
ああ、僕はなにもかも遅すぎたんだ。
どうにも出来ないこの気持ち。胸は苦しい。
スモーカー准将の腕の中には彼女がいて僕の腕の中には、何も無い。