水曜日はノー残業デーだ。社長の思いつきでそうなったこの曜日が今となっては、きらいじゃなかった。当初は、仕事量が減りもしないのに余計なことをとも思ったものだが、スケジューリングが慣れるにつれて悪いものでもないと思うようになったのだ。
鍵を開けて一人暮らしの自分の城に入る。決して広くはないが、一人暮らしにしては充分過ぎるマンションの一室。玄関の扉を開けてすぐに、明かりがついていることに気が付いた。靴を確認すると、ああ、やはり。若い男物のそれが申し訳無さそうにひっそりと並べておいてあった。
「来てたんだ」
「はい、ご迷惑でしたか」
私の言葉に、キッチンから返答がある。迷惑だと冗談でも言えば、萎縮して帰ってしまいそうな声色だった。「いいえ、待ってたわ」とニッコリ笑って言えば、ホッとしたように彼はコンロに向かってた顔をこちらに向けた。
イタリア男の整った顔立ち。幼い頃はもう少し柔らかい美少年だったんだろうなあと想像出来るが、目の前にいる彼は鍛え上げられているしなやかな体格の良さと相俟って、イタリアの男性だと納得出来る端整さだった。
「いっつも作らせちゃってごめんね」
「拙者こそ、いつも勝手に上がり込んですみません」
何処で習ったのか、日本語はよどみなく完璧だ。何処で習ったの、と聞きたい気持ちはあれど、彼の過去は謎に包まれている。過去どころか、現在の素性すら曖昧なのに、尋ねられるわけがない。最初に彼と出会った時、彼は何かから逃げていた――しかも怪我をしていたのだから、深くは聞かない方が良いのだと、賢明な私の理性が告げていた。
「今日は、拙者の母国のパスタを。簡単な物でかたじけない。おぬしの口に合えばいいのですが」
「私は、いつも同じだけどホワイトエールを買ってきてるよ」
会社帰りに買ってきた水色の缶を二本、手にかけていた白いビニール袋から取り出すと、小さなテーブルに置いた。
「そういえば、バジルってもうお酒が飲める歳?」
いつも何も訊かずにビールを与えてはいたが、実際のところはどうなのだろうか。私には監督責任が発生していたのだろうか。尋ねても、バジルはにっこりと笑ったまま答えてくれない。このネコは、相変わらず秘密主義だこと。
「少しくらい、教えてくれてもいいじゃない。何のために日本に来たのか、とか」
「ああ、それなら答えられます」
「本当?」
彼の作ってくれたトマトベースのおいしいパスタ――どうやらパスタから手作りしてくれたようで、本当においしい――を食しながら、ふてくされた風に聞くと、バジルはにっこりと笑った。
「ええ。今日は、みょうじ殿に会いにきたんですよ」
「……またそんな冗談言って」
今度も煙に巻かれるのかと、唇を尖らせた。だってこんな、歯の浮くような台詞を真に受ける程、私は若くない。昔ならば騙されて嬉しく思ったかもしれないけれど。それに、騙された振りをしてそれを享受出来る程に人生経験が豊かなわけでもないのだ。水色の缶のまま、定番となったそのホワイトエールを飲みながら、ちらりとバジルの方を見ると、彼は少しだけ困ったように眉を寄せていた。
「冗談では、なかったんですけど。第三水曜日は、みょうじ殿に会いにくるって決めてるので」
「嘘」
でも、たしかに。思い返してみると、彼が私の帰宅前にやってきて、夕食を作って待ってくれているのはいつも水曜日。それも決まって第三週目の水曜日だ。前に会ったのはちょうど一ヶ月前だし、その前もその一ヶ月前の水曜日。私が、水曜日のノー残業デーが悪いものじゃないと思ったのも、彼が来るのが水曜日だったからじゃないか。第三水曜日じゃなくても、もしかしたら、その期待が捨てられずに同僚達との食事も断って帰宅していた。
私はきっと、彼がわざわざここへ来てくれているのを知っていたのだ。
「嘘じゃあ、ありませんよ」
その証拠に、この言葉が本当に嬉しい。嘘かもしれない。この日にいつも何か日本で用事があるのかもしれない。バジルはもしかしたら、どっかの企業の御曹司で、日本進出しているから毎月第三水曜日に定例総会があるとか。でも、ここまで言わせたのは私だ。嘘だとしても、嘘じゃないって言ってくれたのが嬉しくて。
「来月も来てくれる?」
「みょうじ殿が、許してくださるなら」
「じゃあ、来月は私が手料理を振る舞いましょう」
「そんな! みょうじ殿はお忙しいのに」
「前の晩から仕込みをしとけば大丈夫。それにバジルのほうが、忙しいでしょう。世界中飛び回ってそうなんだから」
私がそう言うと、「それは、そうですけど……」と言葉を濁してしまった。やはり、彼は素性を教えてくれる気はないのだ。普段何をしているか、分からない。ネコが気まぐれを起こすようにここへ来てくれているのを、私はただ享受するのみ。願わくば、この気まぐれが永遠に続きますよう。私はそっと心の中で祈るしかない。
「たまにはお姉さんに甘えなさい」
「いつもおぬしに甘えています。甘え過ぎてるくらいです」
「まだ足りないくらいよ」
「……拙者は、」
何か言いにくいことを言うかのように、そこで言葉を区切ってバジルは宙に視線をさまよわせた。ふら、ふらと視線が泳いだかと思えば、彼は立ち上がる。テーブル越しにいた彼は、私の反応出来ないうちに、隣に来た。私の手を取って、片膝をつく。白い手は思っていた通りに綺麗な形をしていたけれど、不自然に豆が出来ていて、デスクワークをしているのではないのだと思い知る。
手を取られ、片膝をついた状態のバジルを見つめていると、かしずかれているようで、こそばゆい。何だか、彼のだいじな物になったような心持ちになる。
(そんなこと、ないはずなのに)
決して、バジルには深入りが出来ないのだと、そう思っていたから知らない振りをしていた自分の感情が花開きそうになる。そんなことになったら、苦しむのは自分の方だ。絶対に有り得てはならない。私がどんなにそう押さえ込もうとしても、私を刺すように見つめているバジルの瞳の色がそれを許さない。思わず勘違いしそうになるくらいの熱が、きれいな青い瞳の奥でうごめいている。
少し気を休ませることの出来る年上のお姉さん、ではなく、女性として自分が求められているのではないかと――ぞくり、と子宮の奥が疼いた。
「あのねえ、バジル」
「……拙者は。拙者は、おぬしのことをいとおしいと思っています」
彼が言おうとしていることを遮って、話題を転換しようと思った。もう引き返せないのではないかと怖くなったからだ。なのに、バジルは私のこの感情を読んだかのように、堰を切って告げた。勢いがあるのに、一言一言に力のこもっているその告白を、私はどう受け止めたら良いのだろうか。
バジルに取られていない方の腕を衝動で動かしてしまい、テーブルの上にあった空の缶に当たる。水色のそれはカラン、カランと軽い金属音を立てて転がっていった。
「……また、そんな冗談を言って」
同じ台詞を、二度言った気がする。
けれど、先ほどと違うのは、私が彼の言葉を冗談だと思っていないことだ。冗談ならば、よかった。冗談ならばよかったのに! 見ないようにしていた感情が主張し始めて、私は目眩がしてきた。
「拙者にだって、ご迷惑なのは分かっています。でも、冗談ではないんです。冗談にして欲しくは、ないんです」
すみません、だなんて謝るくらいなら言わないで欲しかった。素性を隠すのと同じように、隠していて欲しかった。だって。
「だって! 私、あなたのこと何も知らないんだもの! イタリア出身なのは知ってる。でもそれしか知ってることはないの。あなたが何歳で、何をしている人で、何のために日本に来ているのかすらも知らない。そんな状態で、どうして、どうしてあなたの気持ちに応えられると言うの」
「申し訳ありません、みょうじ殿……」
「私だって、あなたのことが好きなのに。見ないように、していたのに」
「……すみません」
謝り続けるバジルに、大人げないとは思ったが、もう止まれなかった。止まってはいけないと思った。これは、私の本音だ。
「甘えたくはないんです。守りたいんです」
「そんなこと!」
「今は未だ、守れる自信がないから、こうやって何も素性を話せないんです。その所為で、不安に思わせていることは知っていました」
「待てばいいの? どのくらい待てばいいの」
「……分かりません」
「バジルは、バジルはずるいよ」
嗚咽を押し殺して、私は言った。待てるわけがないじゃない。私も良い歳だ。今はまだ、若いと呼べる年齢ではあるけれども、あっという間に歳なんて取ってしまう。この先あるだろう結婚の機会をふいにしてまで、彼を望む覚悟はなかった。
「待たないでください」
「何で、何でそんなことを言うの」
「守れるような立場になるまで、実力を得るまで、拙者が生き残っているかも分からないのです。こんな不安定な男は忘れるのが、みょうじ殿のためです」
「そんなこと言わないでよ」
いつのまにか溢れていた涙は、何本もの線となって両頬に残る。相当醜い顔になっているに違いないのに、バジルはふわりとやわらかく微笑んだ。そっと腰を浮かすと、左手を私の頬に手を当て、右手でそっと後頭部を撫でる。落ち着かせようとしている彼のもくろみ通り、少しずつ冷静になる。
「そんなこと、言わないでよ。嘘でもいいから、待っていてって言ってよ」
「拙者は、嘘はつけません」
その言葉を、どんな表情で言ったのか。私は知ることはなかった。後頭部をそのまま彼の胸へ引き寄せられる。頬に宛てられていた左手はそっと背中に回された。どくり、どくりと心臓の音が聞こえる。通常よりもピッチの早いそれが、彼の心情を教えてくれた。私のそれも、彼に気付かれているに違いない。感情だけじゃあ、生きていけないのだ。全てを投げ打って愛に生きられる歳じゃない。彼も、そんな世界に生きてはいないに違いない。触れ合っているのに、遠いのだと実感する。
「拙者がおぬしを守れるようになったとき、その時もみょうじ殿。おぬしがひとりなら、拙者と共に生きてはくれませんか」
「私は、もしもの話はしたくないわ」
生きたい。生きたいよ。でも、突き放すようにそう言った。バジルはそっと離れていったけれど、私は彼の顔を見れない。視線を下に彷徨わせて、水色の缶に描かれているネコと目が合った。頑にならなくてもいじゃないか、そう諌められているような気分になって、大人げなく昂っていた自分を自覚する。熱くなっていた感情はゆっくりと理性によって浄化される。
「……そうね」
「……」
「もし、あなたが私を迎えにきてくれるなら、水曜日に来てね」
残業のないこの曜日、私はひとりで待とう。宣言はせずとも、そう心で誓った。週末は、誘われたら出て行くだろう。恋人を作らないとも約束しない。だけど、水曜日だけは。
「ええ、必ず」
バジルのその返事に、私はにっこりと笑った。
水曜日、ネコが迎えにきてくれることが、あるのかどうか。私が待てるのかどうか。確信を持って言えることは、なにもない。
2013.12掲載。
イメージソースは水曜日のネコです。
このお酒で何か一本書きたいとずっと思ってたのですが、バジル以外に思い浮かびませんでした。
バジルは何故か水曜日のイメージがあります。