冬が明けた。
春分の日もとっくに過ぎているにも関わらず唐突にそう思ったのは、花屋に並ぶラナンキュラスのおかげだろう。数多の女性達から黄色い声を上げられてきただろう、豪華なかわいらしい色とりどりの花が、ころん、ころんと咲いている。店頭に並んでいるのは切り花だから、ピークはもう少しだけ後だろうと、詳しくもないのに勝手に思う。
もう少し経てば真新しい制服やスーツを纏った初々しい姿が街中に溢れるというのに、私は着古したワンピースに身を包んでいるのがどうにもおかしい。
ついこの間までは、いろいろと手立てを探しながらも、彼とはもう二度とあえないかもしれないという不安に毎日冒されていたにも関わらず、今では渡米の準備をしているのが信じられない。ふと振り返って、先ほど出て来た駅の改札の方を見る。通勤のために毎日見て来たこの景色を、数日後には見れなくなるんだなあ。と思うと、ようやく実感が湧いて来た。
どうもここ数週間の記憶は現実味を帯びない。硝子越しに、カメラ越しに彼と季節を超えたあの島で再開してから、こうなるまでの展開が早すぎる。恋人らしい恋人の期間も無いままに、つい先日籍を入れて来たところだ。あの島にいるあいだ音信不通のまま生きてるのか死んでるのかも分からない状態に心配してくれていた友人に、彼と再会をしたのを含めたことの顛末を話したら驚愕してたっけ。当然だ。当事者の私でさえ、夢なんじゃないかと思いながら打ち明けていたんだもの。シーハイブとの取引で、守秘義務もあることから詳しい内容を言えなかったし。
出勤のときと同じ駅で降りたけれど、今日の目的は違う。いつもの癖で三越の前に出る階段を上って途方に暮れる。えっと、どうやって行けばいいんだったっけ。島に行く前であれば、もうすこしはましだっただろうが、ここ二年は退勤後のショッピングも、同僚とのお茶もディナーも心に響かなくて、界隈の地図すらもあやふやになりつつある。島にいたときには取り上げられていた自分の携帯端末、あれ以来機種変更もしていないので動きがすこし心もとないが地図のアプリを立ち上げて待ち合わせ場所の住所をコピーアンドペーストする。
GPSを頼りにたどり着いたのは、とあるレストラン&バーの入り口。少しずつ長くなっている日は、だけど今日はもう落ち始めているようで辺りは薄暗い。少し緊張するような雰囲気を作り上げている細い階段を下りて、地下にある入り口へ向かう。ドアノブを捻り力一杯押すと、金属がこすれたような重い扉の開く音とともに開けた空間からこぼれ落ちてくるのはジャズめいたBGMだった。
若いとまでは言いにくい落ち着いた雰囲気を持つ女性が出迎えてくれる。「いらっしゃいませ」「すみません、待ち合わせなんですけれども」「はい、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」案内されたのは奥まったところにある、個室だった。
「狩谷様。お連れ様がいらっしゃいました」
店員の女性がそう告げて横開きの扉を開けると、見えたのは懐かしい人。見慣れた看守服は当然着ておらず普通の会社員と同じようなスーツ姿だけれども、全てを支配するかのような鋭い目元も変わらない。その視線が私をとらえた瞬間、少し口元が緩んだ気がしたが、瞬きの間に元通りになっていた。気のせいかもしれない。だが、一見冷たそうに見えるこの男の心のうちは存外見た目ほど凍り付いていないのだと、私は既に知っている。
「お元気そうで何よりです、みょうじさん」
「ご無沙汰しておりました。その節は、どうも。看守さん」
「……その呼び方は、なんとかなさいませんか。もう私は看守をしていませんし、本土でその呼び方をされるとあまり、聞こえが良くない」
「それもそうですね。えぇと……狩谷、さん」
アネモネの舞うあの島へもう一度入れるように手を回してくれたのはこの人だった。今回、私はお金もワインも握らせていないのにそっと手助けをしてくれたのは、もしかしたら彼の中に罪悪感があったのかもしれない。それが彼の仕事であったのだから仕方が無いのに、相談員としてあの島にいた終わりの時期には狩谷看守からの同情やそういった類いの感情は、私があの人でなくたって見て取れた。
だけれど、彼がしてくれたことに対してお礼を言うのはどこか違うのだろう。それは彼が望んだことではない。表立ってそれを認めてしまえば、逆にきっと彼の立場を追いつめるのだと少なからず分かっていたから、私は曖昧に微笑んで「お元気そうで、何よりです」「貴女の方も」当たり障りの無い話題を選んだ私に、そちらも当たり障りの無い返答をよこしたと思えば鋭い目をさらに細めて、意味深に笑う。
一声掛けられ、個室の扉が横に滑る。目の前の男が好んでやまない葡萄酒の入ったグラスが二つ。それから、前菜として何やら小洒落た突き出しが小皿に入って出される。イタリアンレストランなのかおしゃれな居酒屋なのか、バーなのか、よくわからない立ち位置のお店だなと心の中でだけ思う。扉が再び閉まり、店員の足音が遠ざかる。外の様子をうかがっていたが、やがて離れたことを確信したのかガラス製の薄い水色の小皿に入ったそれをそっと口に運ぶ。狩谷は目を細めたまま、再びこちらに視線を合わせる。
「……無事に欲しい物を得られたようで」
「知ってらしたのでしょう?」
「いいや。そうなるかもしれない、とは思ってましたが。貴女の悪運の強さには脱帽です」
嘘だ。反射的にそう思った。
知っていたはずだ。わざわざあの日を指定して入港許可を出したのを、私は忘れていない。「仕組んだ訳ではありませんよ」「……」「確かにあの日、キサラギが島に行くかもしれないという情報は掴んでいましたが」私のじとっとした疑いの眼差しを避けるように目線を外し、ワイングラスを見つめながら彼はそう嘯いた。
「何故、私に協力をしてくれたのですか」
「まあ、お礼ですよ。貴女のお陰で停滞していた任務が片付いた、それくらいありがたいことだったということです」
そういえばその見た目から冷たい人だと思うことはあったが、島にいた頃からこの人は不当に人を貶さなかったな、と唐突に思った。何か他意があったのではないかと、少し考えてしまった自分が恥ずかしい。他意があったのなら、きっとこの人は初めにそう告げているはずだ。あるいは、言えないことは言えないと。そう分かったら、何故かするりと言葉がこぼれ落ちていた。本当は事情の知っている人に、それでいて信頼の出来る人に聞いてほしかったのかもしれない。
「私、ハルトくんに着いて、アメリカに行くことになったんです」
「存じておりますよ」
「そうでしたか」
「良かったじゃないですか。それとも何か、不安や不満でも?」
「それは……」
全てを見透かしたかのように、狩谷は言う。グラスに注がれた葡萄酒香りを楽しみ、一滴すら無駄にしたくないというかのように口に含む。透明に近いその液体を目を瞑ったまま舌で転がして、満足したのか咽喉が揺れる。
「無理もありません。自分のすべてを捨て置いて、異国に行く訳ですから」
「それは、良いんです。良いと思ったんです」
「おや、そうなんですか」
「だって、あのまま島に閉じ込められても良いと、あの時はそう思ったんですから。それに比べたら、アメリカなんて。自由に帰って来れるし、自由に連絡も取れる」
「では、何が不満なんですか」
「不満というか……不安なんです。ハルトくんの妻として、うまくやれるのか。私の知らない場所で」
私の真剣な悩みを聞いて、看守はフッと笑いをこぼした。微かであったけれど、珍しくて目を瞬いてしまう。もしかしたら、怒るところだったのかもしれないけれど、それすら忘れて呆然としてしまった。失礼、と言いながら手を口元にやっている。目元はいつも通り涼しげで鋭いが、手が離れた唇は、両端がにゅっと上を向いている。
「いえ、無理にあの島につれて来られて、前向きに生活していらした貴女の台詞とは思えなくて」
「あの時は、だって、他にどうしようもなかったから」
「では今回もそうとしか出来ない状況を作って差し上げましょうか?頂ける物さえもらえるなら、そのために動くのもやぶさかではありませんよ」
まだ半分ほど中身の残ったグラスを揺らしながら、狩谷は私の反応をじっと見つめている。感情の読みにくい人ではあったけれど、これは間違いなく面白がっている。「いえ、」その返事をするのには、とても勇気が必要だった。だけれど、そう言わなければ彼はきっとお膳立てをしてくれるのだろうと思うと言わざるを得なかった。「結構です。今回は、私、自分で決断してハルトくんと一緒にいたいんです」その返事を聞くと、彼は肩をすくめて「残念です」と言ったけれど私には「良く言えました」と言っているようにしか聞こえなかった。
「キサラギも、良い人を捕まえましたね」
「私が、ハルトくんを捕まえたのかもしませんよ」
「……運命か」
「狩谷さんから聞きそうになかった単語ですね」
「キサラギが言っていたんですよ。運命ならば、繋がっているはずだって。まあ、あながち間違いでもなさそうですね」
具体的に何を言っていたのか聞きたかったけれど「ハルトくんが?」という私の聞き返した声は、狩谷が店員を呼ぶ声でかき消された。私にはよくわからないがとっておきらしいワインを頼む。蘊蓄を聞かされながら待つこと十数分。それに合う料理が運ばれてくる頃にはハルトくんがやってきて、永遠に聞く機会を失ってしまった。「遅いぞ、キサラギ」「どうして、彼女もいるんです」「さあな」ハルトくんも詳細を聞かされずに呼び出されたらしく、少し不機嫌そうな面構えだ。狩谷はそんなハルトくんに取り合おうともせず、強引にグラスを持たせ、アルコールを注ぐ。
「お前達のことをまともに祝ってやれるのは、社内では俺だけだと思ってな。喜べ、キサラギ。2008年物、お前の最愛からあの島で頂いたとっておきをあけてやる」
2017.03掲載。