満月の中をひとり、目的地まで迷いなく歩く。街路に植えてある木々や草花を眺め、今年はあっという間に桜の散った年だったと不意に実感した。
桜だけではなく女の盛りもあっという間なのだと思い知ったのは、友人たちからの結婚報告が次々と舞い込んでくるからだというのは本当だが、、新しく入隊するC級隊員たちのきゃぴきゃぴとした様子に年々ついていけなくなってきたからだということも多分に含まれていただろう。
私が界境防衛組織「ボーダー」の一般隊員となってから、どのくらいが経って何を得たのだろう。考えたくもない。個人ランク戦では安定しない順位をふわふわと彷徨い続け、誰か忠誠を誓った人がいるわけでもなくいろんな隊の間を渡り鳥のように飛び回っている。特に目立った戦術も能力もない私の、唯一特異な点がそこと言えるだろう。
アサヒの缶ビールを片手に、川の土手に座り込む。近年、都市開発やら理由を付けては徐々に姿を消しつつある桜の木だが、ここはまだ手を付けられていなかったようでほっとした。ソメイヨシノはあまり好きではない。あれは少し儚いが過ぎると思うのだ。
この場所からちょうど美しく見える八重桜は遅咲きの桜で、ソメイヨシノが散ったころにようやく見ごろになる。私は毎年、この時期を楽しみにしていた。薔薇のように咲き誇る肉感のある花弁は自信に満ち溢れている。守ってもらう必要なんてないのだと、主張しているようで健気ではないか!
座り込んだまま、ぐっとビールを喉に流し込んでもう一度八重桜を眺めようと顔を上げた、ら、立った男の影が私を覆った。口の中の液体を飲み込んで何か言おうとするが、その前に声を掛けられる。
「こんなとこでオンナノコがひとり、何やってんの、みょうじちゃん」
「迅」
「どうしてここが分かったの、って顔してるね」
「どうせ、あんたのサイドエフェクトがそう言っていたんでしょ。それに、オンナノコって歳でもないわよ、もう」
ふっ、わらいを溢しながら言うと迅は「よくわかったね」とでもいう様に気障ったらしく片目を閉じてウィンクしながら私の横に当たり前のように座り込んだ。
この迅悠一という男は私の同期ともいえる存在だが、読めない表情は出会った頃から変わらない。私と同時期に入隊したにも関わらず、私と違い重用されている理由は単純な戦闘力の差だけじゃない。相手に悟られず自分の思う様に物を運ぶ政治力だ。彼の時には笑顔を使い分けるポーカーフェイスがあるからこそ成し遂げられた偉業だろう。
「気が付いたら私達もそれなりに古株ね」
「今日はいやに感傷的じゃないの、みょうじちゃん」
訝しそうに私を見て(しかしそれが彼の心情を本当に表しているのか、私には分からない)、理由が分からなかったのか首を傾げた。なんとなく追及されるのが嫌で、私は飲んでいたアサヒの缶を迅の口に押し付けた。迅は抵抗することなく私の手ごと缶を包み込んで中身を喉に流し込む。ごくごくとリズミカルに揺れる喉仏の動きが妙に扇情的で、彼の首筋はとてもおいしいんだよな、とここでは関係ないことを思い起こさせる。
そんなことに気を取られていたからか、迅が飲み干した缶ごと私の手首を地面に縫い付けたことに気が付かなかった。大分暖かくなってきたとはいえ、冷える夜分。少しだけ湿った土が手の甲を汚す。驚いて缶を手放すと、中身のなくなったそれは簡単に転がっていった。ぬるかった、だなんて文句を言って反対の手も同じように地面に縫い付ける。あーあ、背中まで泥まみれ。まるで私が逃げるとでも言いたげな対応だ。逃げるつもりなんて、そんな勝算のないこと、この男相手にするつもりないのに、心外だな。
「聞きたいことがありそうな顔してるけど?」
「この状況には多分に物申したいけど?」
「やだなあ、そうじゃないでしょ」
ここ最近、ずっとそんな顔してたよ。と言って読めない笑みを浮かべる迅悠一に私はなんて答えるのが正解だったのだろうか。幾筋もの未来が見えているのに、わざわざ彼は私に言わせるつもりなのか。結局はそう、最後には誘導されるのならば、誤魔化したって無駄だろう。あきらめと共に口を開く。八重桜の花びらも何枚か、ひらひらと風に乗って、もう少しで私の顔に掛かりそうだった。
「ねえ、迅。私があんたと結婚式を挙げる未来は見える?」
私の問いに、迅はきょとんとした。初めて見る表情だった。迅にしては無防備なそれは、彼にとって意表を突く質問だったのかもしれない。どういう気持ちで私の言葉を受け止めたのか、私には分からない。ただ私は最後に、初めて彼の隠されていない表情を見ることが出来たように思えて、それだけでこの質問をした価値があったと確信する。
迅は少し悩んで、それで慎重に言葉を選ぶように、告げる。私を地面に縫い付けたまま、私の目から決して視線を逸らさずに。
「おれとお前が結婚する未来は、見えないよ」
「そう」
やっぱり。私は心の中でそう思って、それを迅から告げられた時には自分から言おうと思って用意しておいた言葉を言おうと決心した。私も彼と同じように、視線を逸らさない。本当に珍しく真剣な表情は何かを告げようか悩んでいるようだったが、彼の言葉を待たずに私は声にする。
「別れましょう、私たち」
不毛だわ、こんなの。私の言葉に迅は一度口を開いたが何も言わず、刹那だけ苦悶に満ちた表情を見せたかと思うと、すっかりそれをそぎ落として何でもない風な微笑みを浮かべ、「そうだな」と頷く。
不毛だった。この数年間。ボーダーに入隊したのは彼や他の大勢の隊員と違って、とても些細な理由だったし、何か目立つ戦果をここで残してきたわけじゃない。今更よそに行っても何ができるわけではない。そういえば、年を取って、戦えなくなった戦士はどう処理されるのだろうか。不要になった私はどう廃棄されるのだろうか。実力派エリートを名乗り続けるに値する目の前の男と違って、私は何一つ組織に貢献できていない。
「ボーダーに所属し続けるのも、潮時かしらね」
「それは、おれのせい?」
「私のせいよ」
迅は私を解放しない。何を考えているのか分からない、分かった試しがない。私はすっかり飼いならされた鼠のように、この男に関して思考することを放棄してしまっていた。油断と諦めが入り混じった私の心中を荒らすように迅はそっと顔を近付けてくる。対応が遅れた、そう思った時には唇が彼のそれに塞がれていて抗議を口にすることもできない。茫然としている間に与えられるばかりの口づけは甘美で、だけどそれはとても久しい感覚だった。にゅるりと隙間に入り込む蛇のように侵入してきた舌は慎重に、しかし躊躇いなく私の中を蹂躙していく。ずくっと身体の芯が疼いて抑えなくてはと思いつつも、酸素濃度の下がった脳は快楽に逆らえない。そうなってしまってはあっという間だった。でたらめに歯列を辿るそれに沿わせるのは手慣れたことだった。迅は私の抵抗が全くなくなったことに気が付いたのか、最後にちゅっと音を立てると、簡単に離れていった。全く、勝手な男。
「どうして?」
「どうして、だって? まったく、それはおれが聞きたいよ」
隣に座り直して、まだ横たわったままの私を見下ろした迅の表情は呆れていた。私には迅が何を言いたいのか掴めず、熱に浮かされた脳を覚ましながら彼を見つめて真意を探る。
「みょうじちゃん、まだこんなにおれのこと好きなのに、どうして別れようって言うの」
「理由は言ったじゃない、不毛だって」
「いいや、そんなの理由になってないね。まったく意味が分からない」
「意味が分からないのは私の方よ! 未来の約束も、望みも、何もない人と、どんな気持ちで付き合っていけばいいのよ」
言っていて泣きたくなった。込み上げてくるものがあるけれど、無視をする。だって、その通りなんだもの。私はまだこんなにも迅のことが好きなのに、彼のサイドエフェクトは私との未来は見えないという。結婚のためにやり直しがきくのはもう今の年齢ぐらいが限界だ。展望もないのに惰性で関係を続けることは、貴重な二十代を浪費するにはあまりにも代償が大きすぎる。
「あー、みょうじちゃん。ごめん、たぶん誤解させた」
「誤解じゃない。知ってた。迅にそんなつもりなかったって。私が、勝手に期待してただけだから」
「そうじゃないって」
迅はため息を吐いたが、ため息を吐きたいのはこちらの方だ。彼が私と結婚する気もないのに付き合い続けていたのは、きっと私が手近で、都合の良い存在だから。そんなことも分かっていた。大体、始まりからしてそうだったのだから――なんだかここで八重桜を見ていることすら不毛に感じて、支部へ帰ろうと立ち上がる。迅は私に続いて立ち上がった。向かう先は同じなのに、逃がさないとでもいうかのように私の左手首を再びつかむ。
「ごめん、わざと誤解させたんだ。格好つけて」
「誤解じゃないでしょ」
「誤解だよ。だってみょうじちゃん。おれのサイドエフェクトじゃ、お前が見えないって知らないだろう」
まともに取り合っていれば、またなあなあになって関係が続いてしまう。それならいっそここでケリをつけてしまいたい。あなたとの一切と断ち切りたいと思って振り向いたその表情は、冗談を言っている様子ではなかった。
「なんでなのか、いろいろ考えたけどわからないんだよね。ただ事実として、みょうじちゃんの未来が見えない」
「嘘。なんで。じゃあ、どうしてここが分かったの」
あんたのサイドエフェクトがそう言っていたからって言っていたじゃない、と言いかけて先ほどの会話を反芻する。彼は肯定していない。意味深にウィンクしただけで私が勝手に勘違いしたのだ。「それだけ、おれがみょうじちゃんのこと良く知ってるって、それじゃ理由にならない?」先ほどと同じように片目を瞑って彼がそう言うから、私の頬はカッと熱くなった。血が上る理由は照れからくるのか、怒りから来るのか分からない。
「だって毎年この時期にここで見ていたの、知ってるから。最初の年は、アサヒじゃなくてオレンジジュースだったけど」
「どうして」
「みょうじちゃんとの未来が見えなくて、一喜一憂していたのはお前だけじゃないってこと」
掴まれたままの私の左手は泥だらけなのに、迅は愛おしそうに両手で包んだ。戦いを知っている手はごつごつと大きく、私だって同じだけ戦い続けているにも関わらず、男女の差を感じて悔しくなる。そんな私の心情を理解しているのか、そのまま手を弄んでいた迅は片手をポケットに入れて何かきらりと光るものを取り出したかと思うと、私が何も抵抗できない間に薬指に引っ掛けた。
「お互い不安なら、結婚しよっか、みょうじちゃん」
「……なんで不安だって分かったの」
「おれがサイドエフェクトだけで人を見てるわけじゃないっていうのも、知ってるくせに」
おかしそうに喉を鳴らして笑った迅に、私は頷いた。彼はいつから準備していたのだろう。薬指にちょうどぴったりと嵌まった指輪は短期間で拵えることの出来るものではないはずだ。きっと今後も私は彼には敵わないんだろうなと考え、それでもいいかなと思い直した。無数の未来から選び取るのではなく、見えない未来を一緒に作っていけるのが、彼にとっては私だけだというのは、それだけ私に優越感を与えたのである。
2018.05掲載。あおちゃんへ。
口調がわからん。設定もおかしい。未来っぽい。の三重苦ですまん。