起き抜けの回らない思考のまま、共同の洗面所へとのそのそと歩く。同室のルームメイトはみんなまだ眠ったまま。起こさないように、息を殺して部屋を横切った。冬のスコットランドはとても冷え込むので、水道の水だって当然のように冷たい。しもべ妖精に頼みさえしたらきっと毎朝あたたかいお湯を用意してくれるのだけれど、私はこの凍るような冷たさが案外嫌いじゃなかった。
 冷えきった温度は、眠っている思考を呼び起こし、しゃきっとした目覚めのお手伝いをする。顔を洗って、口をすすぎ、先ほどよりもはっきりとした意識で、髪の毛を結う。友人ふたりとお揃いの三つ編みは、入学してからもう三年間、毎日欠かしたことがない。ふたりと違って、私は金色の髪は持っていないけれど、自分のこの濃いブラウンの髪色がきらいではない。髪の毛の一本一本が常人よりも少し細めでやわらかく、太陽の光で透けると淡い薄茶色になるのを、みんなにほめられればうれしくなるくらいだ。たまに、自分だけが金色ではないことに、寂しく思うことはあるけれども、それはそれ、これはこれ。
 髪をくくったら、申し訳程度にリップを塗る。唇がほんのりピンク色づいたのに満足して、私は洗面台の前を離れた。厚手で冬用のローブを着込み、抜き足差し足、部屋の外へ。談話室の暖炉はすでにパチパチと燃えていて心地の良い室温だが、ふかふかしたソファに腰を落ち着けることなく寮を出る。

 早朝の校内は、まる違う学校にいるかのように静まり返っている。この時間に出歩き始めた当初は、興味深そうに私を見つめてきていた壁の絵画達も、今は関心を払う様子もない。ああ、おはよう。今日も早いね。なんて口々に言う絵画に、おはよう、おはようと返しながら私は禁じられた森の近く、いつもの木陰にたどり着いた。
 彼はすでに定位置の切り株に腰掛けて、本を読んでいた。悪名高いスリザリンのネクタイが怖くないのは、きっと彼がつけているから。きちんと歪みがなく第一ボタンの上で締められている深い緑色とくすんだ銀色のそれは、彼の同寮生のものと、違うように見えてしまう。短く切りそろえられた濃い色の髪の毛は、無口な彼の性質と相俟って、彼を同年代の中でも大人びて見せる。私と同じ、第四学年のはずなのに、そうは見えないからちょっと悔しい。
 周囲、そして私がいつも腰掛ける方の切り株も、魔法で雪が溶かしてある。毎朝、彼の方が先にきてはそうやって場所を整えてくれるのが、どうしようもなくホッとさせるのを、彼はたぶん知らない。口数の少ない彼が、少なくとも私がここに来ることを邪魔に思っていないと、実感しては毎朝、ひとり頬がゆるんでしまう。
 いつものように彼はページから顔を上げるでもない。私もそれを邪魔をしては悪いと思って、なるべく気配を殺したまま、ぼうっと空を見上げる。積もっている雪は、夜に降っていたのだろう。今朝の天気はそれほど悪くはない。太陽は完全に顔を出しているわけじゃないけど、少なくとも雪も、雨も降っていない。きらきらと白い雪のベールが、木々の間から差し込む細い日の光を弾いて輝いている。

 どうして、私たちはここで時間を共有するようになったのだったか。特にきっかけがあったわけでもない気がする。朝の散歩でばったりと会って挨拶をするくらいだったのが、徐々に口数も増えて、こうして腰を落ち着けるくらいくらいになったのだったっけ。
 とはいえ、私たちは一緒にいたとしても、それほど会話をするわけでもないのだけれど。
 ぼんやりと佇むだけのこの時間が、私は嫌いではなかった。そもそも、あんまり人と話すのが好きというわけではないし。ハンナやスーザンとのおしゃべりは好きだ。でも、こうやって、黙ったまま隣にいてくれるひとの存在というのは、どうしてこんなに心を満たすのだろう。ため込んだ悪い感情とか、誰にこぼす訳でもないもやもやとか、そういう心の底にザラザラと、溶けきらずに残ってしまう黒い靄を、知らないうちに浄化してしまうような、そんな空気に溢れているのが、彼の隣なのだ。

 どれくらい黙ったままいたのだろう。きりの良いところまでいったのか、彼はまるでたった今、私に気が付いたかのように顔を上げた。その気配に、ずっと雲の流れを目で追っていた視線を平素の高さまで戻して、彼の方を見た。視線を合わせるには少し足りない高さ。それでも彼が私を見ているのがわかる程度。風に吹かれてなびいた彼の深い色の髪の毛、けれども彼自身は黙ったまま。

「おはよう、ノットくん」
「ああ、今日も来たんですね」

 なんて物好きなんだろう、と彼――セオドール・ノットくんはその挨拶に呆れを滲ませる。でも、それは私を非難しているわけでも咎めているわけでもないと、私は知っている。知っているからこそ、にっこりと笑ってうなずくのだ。

「僕となんか関わってたら、きみの友人達は良い顔をしないだろうに」
「みんなは、わたしが毎朝ここに来てるってたぶん知らないし――みんな、私の友だち関係にそんなに口出ししないもん」
「それもそうだな」

 ふ、と口元をゆるませた、そのノットくんの表情が本当に珍しくて、わたしは目を瞬かせてしまった。同時に刹那だけ、もやっと心の奥底で何かが陰る。それに気が付かないようにして、きょとん、と首を傾げたら、ノットくんは言葉を続ける。これも珍しい。

「そういう考えでなければ、きみみたいな純血家系なんだ、スリザリンに入っているでしょう?」

 呆れてるのかもしれない、淡々と告げる言葉に、両親を思いだして少し悲しくなる。両親が、わたしがスリザリンに選ばれなかったことを残念に思っているのを知っているのだ。わたしは幸運にも愛されて育っている自覚はあるし、両親だって表だっては私を非難しないけれど。

「純血主義って、わたし、よくわからない」
「誇り高いことだとは思わないのか」
「本当に申し訳ないんだけどね、わたし、とっても自己中心的なんだと思う――つまり、わたしにとってだいじなのは、ご先祖様とか誇りとか、そういうものじゃなくって、自分自身なの」

 もしかしたらがっかりされるかもしれない、そんな不安が喉にまでせり上がってきていたけど、思わず言ってしまった。今まで誰にも言えなくて、ずっと自分の中で抱えていた思い。ノットくんには、こんな自分のずるいとことか、身勝手なところとか、あんまり見せたくなかったのに。でもそういうわたしの不安とか抱えているものとか、見つけだすのが、この人は本当にうまいと思う。的確に気が付いて、抵抗してしまう前にえぐりだして、そして表情ひとつ変えずにそのまま彼の本棚の中に仕舞い込んでくれるのだ。
 いつもなにも言わないけれど、わたしのこと――わたしのことだけじゃない、いろんなひとのいろんな事情とか感情とか、見抜いているんだと思う。

 わたしの言葉を咀嚼するかのごとく、すこし黙ってわたしの方を見つめていたノットくん。そのまっすぐ射抜くような、心の奥底まで見抜くような視線に居心地が悪くなって、身じろぎをしたら、ようやく彼はゆっくりと口を開いた。迷うように、視線を空にさまよわせて、それからまたこちらに戻す。

「純血主義ではないことの何が、自己中心的なことに繋がるんだ」
「連綿と受け継がれてきた伝統とか、誇りとか、そういうことに興味があまり持てないの。わたしは、わたし自身の体調とか、いつかきっと産むだろう子どもの健康とか、そういうのの方がだいじに思ってしまうのよ」
「どういうことだ」

 硬い声でそう言った彼は、わたしの言う意味を本当はわかっているんだと思う。だって聡明な彼のことだもの。だから、わたしは細かい説明をすることはなく、ただ微笑むだけに留めた。
 ノットくんはその骨張った顔を少しだけこわばらせた後、ゆるゆると息を吐く。そこに染み出ているのは、やっぱりわたしへの呆れと、それでもわたしのたいせつに思っていることへの理解。彼がこれを受け入れることはないのだろう。でも、簡単に否定しないでくれるのが、泣きそうになるくらいにしあわせだということを、彼はたぶん、やっぱり知らないのだと思う。

「きみが言わんとすることは、分からないでもない。でも、それは僕たちの宿命だから」
「……ノットくんはずるいよ」

 スリザリン寮でとても目立っているマルフォイくん達なら、一蹴しておしまいだろう。彼らは彼らで大切で譲れないものがあって、それをわたしは踏みにじってるのだと、そういう自覚はあるから、だからわたしは彼らに近寄ることもない。彼らだって、その不自由で目に見えない考え方の壁に触れないようにと、合同授業でも決してわたし達に近寄ることはない。
 なのにノットくんは、自分のだいじなものを軽く扱うわたしみたいな存在に心を砕いてくれて、そうして傷つけないように、言の葉を選んでくれるんだ。
 彼のことばは、とっても重い。わたしや他の子達が何も考えずに、思ったままに放り投げるそれと違って、何重にも考えて、選び抜いたものだから。

「僕はずるい、か」
「あ、あのね、わるい意味じゃなくって。本当にね、ずるいって思うの。どうして、わたしなんかのあんな戯れ言に関心を持って、あんなにやさしいことばをくれるのかなって」
「優しくなんか」
「やさしいよ、とっても」

 きっと、彼には分からない感覚なのだろう。それでいい。その方が良い。
 わたしもノットくんも、お互いにことばを探すように黙り込んだ。沈黙が支配するその場を壊したのは、意外にもノットくんだった。

「やさしいと言うなら、それはきみが相手だからだ。きみがやさしいから、僕はきみを傷つけたくないと思って……何より、きみは純血だ」
「傷つけたくないって思ってことばをえらぶことが、やさしいのよ」
「きみがマグル生まれで――しかも、おんなのこでなかったら、きっとそうは思わなかった。例えば、きみの友人のジャスティン・フィンチーフィレッチリー相手なら」
「そうかもしれないけれど……」

 きっと、この話題は堂々巡りになるだろう。
 これ以上続けても不毛なだけだと思って、わたしは反論するのをやめた。ノットくんの表情が徐々に無理している風になっていったせいもある。話すことはあまり得意ではないはずなのに、ここまで続けさせてしまったことが、申し訳なくて。

「やっぱり、ノットくんはずるいよ」

 純血主義なんて、だいっきらいだった。この身に流れている濃い血が、ずっとずっと疎ましかった。純血なんてなんにも良いことはない、近親相姦染みたことが繰り返されて、欠陥を生み出しているだけ、ずっとそう思っていた。
 なのに今この状況は、彼の隣にいられる状況は、わたしが純血だから。誇り高い、孤高の彼を作り上げているのも、彼が純血の家に生まれ育ったせい。わたしがこんなにも彼に惹かれるのは、きっと大きな声で主張することはなくとも、揺らぐことのない一本筋の通った主義を持っているからなのだ。

 純血をきらっていた、そんなわたしを揺るがすセオドール・ノットくんは、本当にずるいと思うのです。


「僕にしてみれば、ミョウジ。あなたの方がずるい」
「えっ」
「純血を否定するなんて、考えられなかったのに、それを肯定しそうになるじゃないか」
「でも、」
「僕はこの身に流れる血が誇りだよ。病弱だった母を思い出しても、それは揺るがない」

 ノットくんはそう言ってわたしを見る。本日何度目か、彼の性格をそのまま表すような真っ直ぐな眼光を見つめてしまえば、もう逸らすことは出来ない。瞳の奥、蛇がちらつくように揺れたかと思うと、彼はゆっくり瞬きをした。気弱な彼は消えた。何かを覚悟したような、冷たい炎の色がチリチリと燃えている。
 心臓が捕まった。ひどく音を立てて早鐘を打っていたその動きは、もう分からない。ざらりざらり、胃の底で気持ち悪くて重いものが溶けきらずに揺れている。指先まで、とても冷たくなっていき、自分が今、切り株に腰掛けているということも分からなくなっていきそうだ。目の前が揺らいで、彼を見つめていられないと思うのに、なのにどうして彼から視線を逸らせないのだろう。
 わたしがひとり、心の中で苦しさにあえいでいたら、彼はようやく声を発した。ここが静かでなければ、溶けて消えてしまいそうな、そんな小さな、声。なのに、とってもはっきりとわたしまで届いた。

「母の病は宿命だったと言える。けれど、あなたは――きみが病に冒されるのは……」

 そうして、横にゆるゆると振る。あきらめたように、ため息をついて、冷えた炎が和らぐ。まぶしそうに目を細めた彼は、喉をふるわせずに囁いた。周囲に積もっている雪の上に重なって、音が溶けていく。

「きみがそう思わせたんだ」

 ずるい、と本当に思う。今の今まで、ノットくんの中にわたしの存在が許されているだなんて、確信できなかったのに。心地の良いテノールの声が、わたしの黒いもやもや隠すように心の中に染み込んで、積もっていく。
 心の中から溢れ出て、喉の奥までせり上がってきている熱い気持ちを隠すように、わたしは両手で顔を覆う。こんな情けない顔を見せたくない、こんな情けないわたしをノットくんにだけは見せたくなかったのに。けれども、ノットくん以外に見せるのはもっといやだった。

「だって、そんなこと言われたら、今よりもっと、きみをトクベツだって思ってしまうよ」
「それは、今もトクベツだと思ってると受け取っても?」
「ノットくん!」

 揚げ足を取るような、そんな言い方。冗談なのか、本気で言ってるのか、からかっているのか。いつもいつも分かりにくくて心臓に悪い。からかうのはやめてよ、そう言おうとしたらその前に牽制をされてしまう。自惚れじゃないって確信が欲しいんだ、っていうその声が本当に弱々しいものだったから、ぽかんと口を開けたまま、また目を瞬いてしまった。
 顔を覆った指の隙間からそっと彼を覗き見ると、ほんのり赤く染まった頬が目に入った。照れたような、恥ずかしがるような、それでいて無表情を心がけて失敗しているような、いろんな感情が綯い交ぜになっている。そんな様子では、無防備な彼を見せてもらっているみたいだ。

「なんて言ったらいいのか、ごめんね、本当にわからないの。近づけば近づくほどに、ノットくんってすごいなって遠く感じて……でも、ごめんね、このままだと、わたし、きっときみをすきになっちゃうよ」

 困らせているのは分かっている、でも謝らずにはいられなかった。ノットくんが、そういうの、すきじゃないっていうの知っているのに、どうしてわたしは。

「僕の方こそ、ごめん」
「なんでノットくんが謝るの」
「きみが疎んでいると知ってても、きみが純血でよかったって思ってるから。本当に浅ましい」

 苦しそうな表情。自分の顔を隠していた両手をはがして、思わず「そんなことない!」叫ぶように声を上げる。思ったよりも大きい音量になってしまって、朝の静かで透き通った空気の中でやけに響く。驚いた野鳥達が飛んでいってしまうのを目で追いながら、今度はもっと静かに「そんなことない」もう一度つぶやいた。

「あのね、ノットくん。わたし、今の段階でノットくんとどういう関係になりたいって、はっきり言うことは出来ない」
「そう、ですか……」
「でもね、今度のダンスパーティのパートナー、ノットくん以外ならいやだなって思う」
「パートナーがどう見られるか、分別のあるきみならご存じでしょうに」
「知ってて言ってるよ、もちろん」

 声が震えてしまったのは仕方がない。
 私たちの年齢くらいじゃあ、知らない人も多いかもしれない。けれど、わたしだって、ノットくんだってたぶん知ってる。ダンスパーティのお相手に誘うって、告白してるも同然だってこと。パートナーになったなら、そういう関係と思われても仕方がないってこと。
 こどものお遊びみたいな今度のパーティで、そこまで気にしている人はいないだろうけど、それでも意識して告げた。遠回しに見えて、大胆なことを言ってるのかもしれない。でも、それ以上にことばが見つからなかったのだから仕様がない。

「……きみが許してくれるのなら、ぼくはきみをパートナーにしたいと、思ったよ」
「それなら」
「でも、スリザリンの僕がハッフルパフのきみを誘うなんて、当然のように出来ないと思ってた。クリスマス休暇は父のところへ帰るつもりで、そう提出してしまったんだ」

 すまない、と謝る彼が想像通りでなんだか愉快な気持ちになってきた。くすり、と笑いを雫せば、いぶかしげな視線を向けられる。

「だってね、ノットくん、ダンスとかきらいそうだから」
「得意ではないのは事実だけど」

 プライドの高い彼のこと。素直に認めずそうやって仏頂面になるところがかわいいって思ってしまう。
 わたしだって、別にダンスを踊りたかった訳ではない。だから、彼が帰ると聞いて少し残念だなって思ったくらい。だいじなのは、わたしがダンスパーティのパートナーの話を持ち出して、それを彼が否定しなかったこと。本当はきっとダンスなんてすきじゃないのに、わたしに合わせてくれたことがうれしいのだ。
 そんなノットくん相手だからこそ、わたしも歩み寄っていいかなと素直に思える。

「純血で良かったなあって、初めて思うよ」

 闇さえも吸い込むような深い色の瞳をぱちくりさせて、意外なものを見る目でわたしを見る。ちょっと照れくさくなって、くしゃりと笑ってごまかした。ノットくんも、つられたように笑った。そしてどちらからともなく立ち上がって、一限目のために、並んで城へ歩みを進める。この道のりを、ふたりで歩くのは初めてだった。手の届きそうで届かない距離感、かと思えば揺れる手の小指が一本、刹那だけそっと触れ合って、あつい熱で何かが溶けて、どうしようもなく満たされた想いだった。


2013.07掲載。