あの時、私は確かに『 』を失ったのだ。
 何処からともなく現れた、薄い薄い人型の影が旦那を包み込んだ日のことを、私はけして忘れはしない。どうして忘れられるだろうか。しなびた旦那のからだ、それを影の中に取り込んで、何処かへ消えてしまった。あの魔物は私をも取り込もうとしたけれど、それは叶わなかった。私の家系には、王家の血が流れているという噂があるけれど、もしかしたらそのせいかもしれない。私の顔を見て、そうして何か言語にならない音を発したかと思うと、私の影だけを奪って何処かに消えてしまった。そう、私の影はその時、確かに失われた。
 私はそれからずっと、そのことばかりを考えていた。旦那のことは愛していたのに、彼の死なんて哀しむ暇もなく、あの影の魔物のことを。取り付かれたように――否、取り付かれていたのかもしれない。喪服姿のまま、来る日も来る日も頭の中は『彼』でいっぱいだった。

 そんな時だった。
 ある朝、突然、金色の髪を持つ吟遊詩人が私の前に現れた。一度だけ見たことのある勇者のそれよりはもう少し薄い、うつくしい金色の髪の毛。神々しさすら感じるそれは、どちらかといえばゼルダ姫のものと似ている気がする。顔立ちはおそらく端整であろう。ただ、口布が顔の大部分を覆っているせいで、確信まではいたらない。片目はざんばらに切られた長い前髪が隠していてよくは見えないが、右目はあまりこの辺りでは見ない赤色の瞳をしている。
 彼は、いつもゆっくりと三回だけノックをする。城下町から外れ、ハイリア湖畔に臨む場所にぽつんと存在するつつましい小屋にはそれで十分だった。彼の気配は常に消えていて、扉を開けるまで本当に彼がそこにいるのか疑わしく思ってしまうほど。

 初めて三回だけのノックを聞いた時には、訪れる人はみな疑わしく思い、扉を開けるのを躊躇った覚えがある。
 しかし、今はもうそんなことはない。夕暮れ。魔が最も活性化するその時間に、彼は今日も三回だけのノックをした。私は躊躇うことなく扉を開く。相手が誰だか、確認することもせず。

「いらっしゃい、シーク。今日はクッキーを焼いたのよ」
「いつもすまない」
「いいえ。私が勝手にやってることだもの」

 夕陽に照らされ、あかがね色に染まった金髪がうつくしいと、いつも思う。けれど、それを口にはせずにシークを迎え入れた。シークも当然のように小屋の中へ。あの時までは夫のものだった椅子は、今やシークの指定席だ。
 あたたかい紅茶を自分の分と彼の分だけ用意して、私も自分の椅子へと腰掛ける。彼はそれを一瞥する。手を伸ばす様子はなく、私もそれを享受する。あたたかな紅茶を、なるべく湯気を避けながらも口に運び、一息ついてから私が話を切り出す。これも、いつものこと。

「今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」

 実はシークが何故、私の前に現れたのか、私は知らない。聞いてしまえば、彼はもう二度と私のもとへやってこない気がして、それが怖くて、聞くことができないのだ。
 いつもいつも彼は、神話や伝説と思えるようなことから、知られざる勇者の戦いだと思われることまで、様々なお話を詩にのせて聞かせてくれる。とはいえ、彼のお話のレパートリーに勇者のことが加わったのは、比較的最近のこと。勇者が魔王ガノンドロフを打ち破り、ゼルダ姫がハイラルに帰還してからのことだ。
 私の問いに、シークはいつもの無表情を刹那だけ翳らせた。どんな形であれ、彼が表情を動かすのはとても珍しい。驚いて、目を瞬かせたあとはすでに元に戻っていた。それを惜しむ猶予さえくれない。

「今宵は、哀しき勇者の影の話をしよう」

 どきりと、心臓が変な風に跳ねた。勇者の、影。もしかして、と気持ちが逸るのを抑えきれない。どくん、どくんと高鳴る鼓動を、彼は知っているのだろうか。
 いいや、私の感情なんて、御構い無しに違いがない。ただ、いやな想像が私を襲う。もしかしたら、彼は今日のために今までここへきていたのではないか。杞憂だといいのに。表情を読み取ろうにも、赤い宝石は何も語ってくれない。形の良いと想像するくちびるが、口布の下で動くのみ。

 どくり。左の胸の辺りで沸騰した感情が、全身を駆け巡る。私の中で無駄に響き渡る鼓動の音が、彼の話を聞こうとする自分を阻害する。真っ白に染まりそうな視界の中、必死で彼の詩に耳を傾ける。ぽろん、ぽろん。古めかしいハープの音に合わせて語られるそれは、ああ――やはり、あのときの魔物のことだ。
 抵抗するまでもなく、窓硝子を擦り抜けて小屋の中へ侵入したあの黒い魔物。満月の夜は、それに絶好の機会だったに違いない。いつもよりも明るい月明かりは、とても濃厚な影を作り出していた。シークの声はもう、私には届かない。弦楽器の音だけがやけに周囲に響いて、あの月夜のことを思い出させる。もう、おやめになって。耳をふさいでも、どうしてだか身体の内から響いている様。足の感覚は、もう無かった。ふらふらと、どちらが上か、下か。全く分からない。水中にいるようで、ふわふわと現実味のない無重力が私を襲った。



『もう、おやめになって』

 あのときの、私の悲痛なこえが、脳裏に響く。言語にならない甲高い悲鳴を上げた黒い魔物は、私の声に驚いた様子でこちらを向く。そこで初めて私の存在に気付いたようだった魔物。硝子を擦り抜けたときには、薄い薄い灰色《グレイ》だったのに、旦那がから水分と生気が抜けていくのに反比例して、その魔物は存在感を増していった。
 私の方を振り向いたときにはもう輪郭ははっきりしていて、何処かで見たようなシルエットだと気が付く思うくらいだった。特徴的な帽子、背中に背負う盾と剣。どうしてすぐに分からなかったのだろう。魔を表すような、赤い瞳に見入られて呆然としているうちに、『彼』はもう近寄ってきていたのだ。(ああ、今思えば、シークの赤い虹彩ととても良く似ていたわ)極近く、接吻でもするのかという程に近寄った顔、造形がはっきりとしていて、そこで分かった。彼は、一度だけ見たことのある、勇者リンクとそっくりだったのだ。
 影の魔物の持つ赤色の瞳は機能しているか疑わしかったけれど、私の青い瞳を覗き込んだはずだ。そこで初めて光が宿るのを見た。影に光が射した、その瞬間に眩しそうに瞬きをして、えうあ、そう言うように口を動かす。しかし、魔物の口からは言語は出てこない。金切り声のような、甲高く気味の悪い小屋中に容赦なく響いた。耳を塞ぎたかった。けれど、私は金縛りにあったかのように動くことは出来なかった。
 事態は絶望的だと思われた。なのに、魔物は私自身にはいっさい手を出すことはしないまま、私の影と旦那を飲み込んでそのまま夜の闇へと消えていったのだった。

 目の前で、再びその悪夢を見ているかのような感覚が、急に褪める。同時に、ハープの音も止んで、私は一気に現実に帰ってきた。ふわふわとした無重力では無くなり、湖が近いせいで湿気の多く含んだ空気が私に纏わりついては離れない。先ほどまでは上も下もわからず、立っているか座っているか、ともすれば倒れているかもわからなかったが、彼の詩が始まる前と同じく、自分の椅子に座ったまま。私はぴくりとも動いていないようだった。

「ミセス?」

 シークに動揺した様子は見られない。始めから、ああなることが分かっていたのか。それとも現実には、私はいつもと同じ様子だったのか。分からない。
 彼の呼び掛けに、ハッと我に返って目をぱちくりさせた。シークは無表情のまま、観察するように私をじっと見つめている。ぶれない視線が、私の心の中まで透かしてしまいそう。

「だいじょうぶよ、シーク。今夜もありがとう」

 平常心を装ってそう答えると、彼は僅かに笑んだように思われた。見えている方、右の目元が少し細まって、若干皺がよる。それが見ることが出来ただけでも今夜、彼にあえて良かったのだと思わせる。

「あなたは、まだ戻ることが出来る」

 突然に、シークはそう言った。視線は私を捉えたまま。けれども、今までにない程、強い口調だと思った。「えっ」思わず零れ出た、私の疑問には答えようともしない。ただ、ちらりと私の背後を見た。シークの奧、透明な窓硝子の向こうにある丸い月に、今宵もまた満月なのだと思いながら、視線を追う。だとしても、私には影が――思考は、底で止まった。

「どうして……」
「もう、取り込まれてしまったかと思っていた。けれどゆっくりと、アナタの元へ返すことが出来て、本当に良かった」

 シークが笑った。間違いなく、今度は微笑んだと、そう思った。
 そして、確信する。やはりそうだ。彼はもう、ここへ来ることは無い。今夜が、最後の邂逅なのだろう。「勇者の影も、これで完全に解放されただろう」捕まっていたのは、私だったのか、彼だったのか。その一言で、どっと哀しみが押し寄せてきた。どうしてのことだったのだろう、私は、夫をうしなったのに、そのことさえ、今の今まできちんと実感出来ていなかった! そして、今晩からは、また独り。私を慰めてくれるものは何も無い。

「僕は帰らなくては」

 本来、彼がいるべき場所へ。
 彼は本当は、私なんかと会うはずはなかったのだ。おとづれたのは、私の中に在った影のため。私がうしなった影のため。だから、止めたって無駄だろう。分かっているのに、私は無駄な抵抗をした。急がないで。紅茶をお飲みになって。彼は、私のことばに反応しさえしない。
 立ち上がって、扉へ向かうのだと思った。なのに、彼は窓の方へと歩みを寄せた。そっと、硝子を開く。キィ、と高い、嫌な音を立てて、ゆっくりと開いたそれ。久方ぶりに開けられるのだと言うことを物語る。じっと丸く満ちた月を見つめる、その姿は絵画の一場面のように思えた。ふと違和感を覚え、それに気が付く。彼の影は何処だろうか。それを問いただす前に、私がすきな透き通る声が脳髄を侵して意識を阻害する。

「月がうつくしい夜だ。せっかく守られた生を、たいせつにすると良い」

 私が何か気の聞いた言葉で返そうと刹那だけ迷ったその間に、彼は何かを弾かせる。目の眩む閃光が周囲を包み、思わず目を瞑ってしまう。そして、ようやく瞼を開いたときには、彼の姿はもう見えなかった。





 ああ、たしかに。
 私は、喪(うしな)ったのだ。


 喉を通り二対の目から溢れ出る、熱く透明な液体を拭うこと無く、私は立ち尽くす。


もったいないのでやっぱり再録。お気に入りのひとつです。 いつ書いたかもう分からないですけど、少なくとも2014年以前です。